安井(地域別/津山市/勝北地域)

畝の六体地蔵(安井)

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 六体並んだ地蔵が墓地や寺の入り口に見かけられることもある。六地蔵の形式は疫病除けと塞の神信仰の結びつきという説もあるが、その後六道輪廻の信仰の主尊となったといわれる。六体の像の名称や持物・印相・六道への配置は、出典によって諸説があり一定していない。
石造六地蔵は鎌倉時代の末期頃から造られているようだが、寺や墓地に造立されるようになったのは室町時代からとも言われている。
 像容は丸彫り像や舟形光背の浮彫り像を六体並べたもの、一石に六体彫ったもの三体ずつ二石に彫ったもの、また一石一地蔵を彫り六体を並べたものなどが見受けられる。

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五輪塔(安井)

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 石造遺物の中で一般的に良く知られているのがこの五輪塔である。五輪塔は仏教の五大思想の教えによる宇宙観を表し、地・水・火・風・空の五つから成り、始めは密教の塔として現れたが、後に広がりを見せて全国的に分布している。
 時代の見方としては初期のものは円形(水輪)の作りがおしつぶされた形をし、全体的に安定感を感じられる。
 鎌倉時代後半より大形の五輪塔が現れるが、その後室町時代に入ると小形なものが数多く造られるようになる。
 埋葬地の上に建てる石塔を墓塔というが、五輪塔は本来堂宇の落成仏像の開眼時の供養のために建てられたものが、時代が下がるにしたがい墓塔化するようになってくる。
 室町時代に一石で造立されたものを一石五輪塔と呼んでいる。なお慶長年間あたりまでは一石五輪塔の造立は続くが江戸時代に入ると消滅してくる。

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如意輪観音(安井)

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 如意とは如意宝珠、輪とは法輪の略である。如意宝珠とは全ての願いを叶えるものであり、法輪は元来古代インドの武器であったチャクラムが転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴である。
 石を丸彫りにし、立て膝の上に片肘をつき、手を頬に当て瞑想する容姿は仏の慈悲を表す。女人の安産を祈願して、十九夜待ちの主尊として信仰された菩薩である。

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東賀茂神社隣の安井大師堂

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 勝北町安井宇根にある大師堂は、通称庵と呼んでおり、真言宗の祖弘法大師の像を祀る堂宇で奥行二間半桁行一間半で大正元年に建て替えられ、そのご二度の修復をへて今日に至っている。
大師堂の建立の由緒は定かでないが、明治初期に毘沙門天が勧請されてから別名毘沙門さまと呼ぶようになった。
そこには、数本の石仏が並び、中でも中央の地蔵菩薩は美しい姿をとどめている。
天明、寛政年間、この地方に多くの石仏を遺した泉州の石工、松尾伊八らの手によって造られたのではなかろうか。天明年間は、天変地妖相次いで起き、国中の者は草の根、木の皮まで食い尽くし飢と病で多くの人が死んでいった過酷な時代であった。飢餓は、八年にも及び諸国の百姓は地獄の苦しみに喘ぎ、何に救いを求めようもない村の人達は、僅かな浄財を出し合い地蔵さんを建て死んでいった人々の供養と菩薩の慈悲にすがった。
安井庵文書を繙くと庵には、代々庵僧が寄寓していたことが伝えられており、天保時代より出羽の国の三九郎夫婦、生国因州の庵僧、旧浜田藩の松田佳次郎などの庵僧の墓が近くの草叢に眠っており、他国の人々を庵僧として温かく迎え入れた厚い人情を村の人々は今でも誇りに思っている。
大師堂のかたわらには大きな庫裡があって昭和二十五年に取り壊し今は、堂宇一つを残すのみとなった。
苫勝霊場二十五番札所の大師堂は、毎年桜の花の咲く頃、苫勝霊場めぐりの遍路で賑い村の風物詩でもあったが、今では知る人もだんだん少なくなり、毎月二十一日の大師の縁日に古老達によって念仏が上げられている。
(勝北町文化財保護委員平田安男記)(平成12年12月19日取材)

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東賀茂神社(津山市安井字宇根)

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 『勝加茂村史』によれば、祭神は大山咋之命、相殿に伊那諾之命・素戔鳴命をまつっています。建長四年創建と伝えられ、明治二年に、勝加茂西中(現中村)から安井字宇根に遷座しました。明治五年日吉神社と改め、明治六年に東賀茂神社と改称しました。(勝北町誌より)

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