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間山神社(勝央町)

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間山神社(はしたやま) 旧名 山王宮 間山字そでもぎ
祭神は大山咋命。
沿革:一條天皇の御代(987)、書写山の性空上人によって創建と伝えられる。三星城合戦時高福寺とともに焼失するも、御神体は類焼をまぬがれたといわれる、その後再建され軒札多数が現存している。なお元禄15年(1702)上相村庄屋半兵衛は次のごとく記している。
「上相八幡、中尾大明神、間山山王宮の三社のうち、山王宮は小中志女大夫の講中であったが、近年黒土西山善大夫の講中となる、先年より惣社山王宮、八幡宮は間山孫兵衛が神役を仕り・・・」
氏子は曽井の一部とまやあ居住計15軒
元禄七年 神主 西山佐進、藤原明永書之
軒札 奉建さくしゅう湘南軍トヨクニこれ床間山山王宮一宇成就
九月吉日 村中十二氏子息災延命牛馬事ヲ守処
(文:『勝央町史』より転載)(2013年12月23日撮影)

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天台宗 鳥羽山 萬福寺(勝央町)

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鳥羽山萬福寺 天台宗 植月北鳥羽野
 境内に観音堂(慶長3年観音寺住職円慶中輿)、大日堂(宇堂の上)、地蔵堂、阿弥陀堂、弁財天祠、薬師堂があった。明治22年11月出火し、今は寺は無く観音堂、大日堂その他が再建されている。
萬福寺縁起古文に、往古役行者小角が回国途中霊験によりこの地に弁財天を鎮座せしとされ、また観世音菩薩の由来は、京都鳥羽に置いて行基が菩薩六尊を新造中に、美作のこの地に飛行し立座した霊夢を、聖武帝と行基が同時に御告があった・・神亀3年(726)創建したと記録され、また再度の火災により大破のみぎり、京都鳥家の長者霊夢を見て、この地に下り再興した。森候の祈願所でもあり、馬継所の桜の馬場の伝承もある。
 観音堂・・・美作三十三観音霊場六番札所、本尊は聖観音立像(148㌢)行基作、足裏に義経と記され、源義経の守り本尊として伝承される。
萬福寺は元亀元年(1570)慈眼大師により再興されたが、寛文の頃に無住となり観音堂の兼務となった、大日堂の見正院に坊籍を許可でず、宇堂は荒廃し、火災でついに廃寺となる。(文:『勝央町誌』より転載)(2021年3月15日・2020年9月10日・2012年9月3日撮影)

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明親館跡(真庭市指定文化財 史跡)

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明親館跡(真庭市指定文化財 史跡)昭和43年5月1日指定
 明治3年(1870)津山藩の目木触・河内触有志の発起により両触の郷学として、早川代官ゆかりの地に創設されました。
 備中聖人と称された山田方谷を顧問に、方谷の門人を講師に迎えました。明親館の名は、「智仁義徳武に親しむ」(親)ことによって「ひらけた国にする」(明)の意味で、方谷自ら命名しました。
明治6年(1873)に血税一揆の焼き討ちにあったことなどから、廃止されました。
平成14年3月1日 真庭市教育委員会(文:現地立て札より)

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2021年勝央工業団地のツツジ

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 2021年4月25日・5月1日の勝央工業団地のツツジです。
今年はコロナ禍の中なので、ドライブしながらお花見が出来るところを探してみました。2018年に行った勝央工業団地を通ってみると今年も綺麗なツツジが咲いていて嬉しくなりました。この工業団地はいつも綺麗にお手入れがされていて奇麗な通りです。(2018年4月22日・28日撮影

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美作の大庄屋「青井家」

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青井家 青井平内 勝南郡岡村 出石藩
大庄屋まで
 青井家の家伝によれば、赤松円心に仕え、今井姓を名乗っていたが、母方の青山氏の姓とあわせ青井に改姓したという。のち、宇喜田直家に従い、天正5年(1577)岡村に移住したという。岡村など8か村が出石藩領になった延享4年(1747)、青井平内は明見村古田氏とともに大庄屋に任命された。平内の父は祠に祀られている道林禅定門という。
大庄屋として
 青井平内の子軍太は、寛政10年(1798)、岡村絵地図を作成している。出石藩は、岡、為本、明見、入田、金井、中原、百々、周佐8か村を支配し、青井氏、古田氏が管轄した。

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1本木で咲く藤の花(鏡野町藤屋)

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 2021年4月25日鏡野方面に行き、1本の木にたわわに咲く豪華な藤の花と出会いました。
ここは、嘗て伯耆往来の新町の中島家を訪ねたのが初めてで、その静かな佇まいに魅せられ時々訪れていましたが、ふと見た景色にひときわ目立つ藤の花が目に入り立ち寄ってきました。この様な豪華な藤の花が咲いたのを見たこともなかったので、見た時は感動ものでした。このお宅は藤屋の髙宮さんというお宅で、髙宮さんの奥様にお聞きすると、この藤は30数年前お嫁に来た時からあったそうです。

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笛吹川歌碑公園(久米南町)

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 笛吹川歌碑公園は岡山県久米郡久米南町にある誕生寺に隣接した公園です。
2020年9月13日に誕生寺に取材に伺った時、門の外で何気なく周りを見渡すと公園という文字が書かれた看板が眼に入り、つられて行ってきました。公園内は2千坪もあるそうです。その中には正岡子規をはじめとする文化人の文学碑・歌碑が沢山並んでいます。また、美しい公園内ではほたるも観察できるそうです。

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鳥羽野の道標(勝央町)

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 勝央町の鳥羽山萬福寺近くの道標が新たに見つかったと、勝央町文化財保護委員長を務めている赤木耕三さんからの情報提供があり訪ねてきました。勝央町の鳥羽野というところは、色々と伝説や遺跡があるところでもあり、嘗てこの地が繁栄していた証拠になるとのことでした。
 この道標は、鳥羽山萬福寺近くの県道側にあり、見せて頂いた地図と重ね合わせてみると道が交差していて、昔は賑やかでここが繁栄していただろうと思われました。また、近くには「昭和4年8月20日 秩父宮殿下御休憩所」の石柱がありました。

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方谷庵(新見市)

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岡山県指定史跡 方谷庵(阿哲郡大佐町小南 金剛寺境内 指定 昭和40年2月24日)
 この庵は幕末の政治家、学者、教育者で備中聖人と呼ばれた山田方谷(1805~1877)が明治5年(1872)に外祖父母の霊を弔うため、母の生家西谷家の菩提寺である金剛寺境内に建立したものです。外祖父母の位牌を祀る仏間(三畳)と炉のある床の間(三畳)を中心とした平屋建、切妻造、棧瓦葺(もと柿葺)の簡素な茶室風の建物で正しくは継志祠堂と呼ばれています。
 山田方谷は、文化2年(1805)に阿賀軍西方村(現高梁市)に生まれ新見の儒者丸川松隠に学んだのち、備中松山藩に召出され、藩校有終館の会頭・学頭として子弟の教育に当たりました。
 嘉永2年(1849)藩主板倉勝静の信任を得て藩政改革を進め藩財政の立直しに貢献し、また勝静が幕府老中首座のときそれを援けて活躍しました。
 明治維新後は当小阪部に隠棲し、小阪部塾を開いて子弟の教育に当たるとともに、しばしば当庵を訪れ、祖先の霊を弔って晩年を過ごしました。 新見市教育委員会 岡山県教育委員会(文:現地案内板より)

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日吉神社(勝央町)

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社説 旧郷社 日吉神社
 本社創立の年代は不詳、社伝並びに古老の口碑によれば天平9年11月、従五位下美作守阿部帯磨より受継ぎをなせる、美作守大伴兄磨が、近江國阪本鎮座の日吉神社より天平10年4月、分霊を奉祀し、翌11年3月7日、御遷座勅許を得て荒田七反歩を寄せ、植月郷総鎮守となしたりとも、或は、内田菅磨、が近江國日吉神社を、旧社地植月中河内山王谷に奉祀し、永正9年、宮山城主植月彦次郎この地に遷し奉ると云う。
平成6年3月本殿・幣殿・拝殿共に著しく老朽せしを、平成の御大典記念として改築なせるものなり
祭神 大山咋命・大巳貴命・豊受大神・味須岐高彦根命・少彦名命・猿田彦命
境内社 稲荷神社・厳島神社(文:現地案内板より)(2020年9月10日撮影)

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