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高貴山自性院 華蔵寺(美咲町)

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第十六番 高貴山自性院 華蔵寺
  かわいらしいお地蔵さんに迎えられ、百観音のお砂踏みをしながら蓮の台に運ばれていきます。仁王さまの厳しい眼差しに身を引き締めながら山門(鶴山城より移築)をくぐると、十二支八体仏のご本尊さまと連山の眩しい緑をバックに、燃えんばかりと咲き誇る霧島つつじの大木にまず目を奪われます。
 華蔵寺は、弘仁六年(815)弘法大師の開かれた高貴山宗傳寺が前身となります。宗傳寺は文安元年(1444)尼子の兵火に罹り堂塔悉く焼失しましたが、唯 塔頭「自性院」のみ南麓に下りて草庵を結び、難を免れた聖観世音菩薩を本尊とし、高貴山華蔵寺と号して宗傳寺の法灯を連綿と継承しております。
 本堂には美作結縁灌頂にてご縁を結んでいただいた両界曼荼羅がお祀りされております。
 本堂をあとに振り返ると泉水には悠々と泳ぐ大きな錦鯉たち...奥には本格的なお茶室が静かにたたずんでいます。
 お大師さまのお招きに歩みを裏山へ進めると、四国八十八ヶ所お砂踏み霊場が続いており、山頂には阿弥陀さま(第十五番宗傳寺)がお待ちになっておられます。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)

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鈴峯山 蓮乗院 薬水寺(美作市)

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 当寺は天平年間、聖武天皇の時代に行基菩薩によって開山されました。寺号を浄瑠璃寺と称し、薬師如来をお祀りしました。
 その後、正元元年(1259)に最明寺の北条時頼入道が、全国行脚の途中に立ち寄られました。
 その時眼病を患っており、本堂におこもりになったところ、「鬼門の方、山上の小池の清水で眼を洗うべし」という夢を見、さっそく洗うと、眼病がたちまちに平癒しました。
 そこに弁財天を安置し、寺号も薬水寺と改めました。
 弁天池の改修、社を再建しながら現在に至ります。しかしながら、平成になって山上に林道が開通したりと環境の変化のため、現在は残念ながら弁天池の清水はわずかながらしか湧いておりません。

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壽寳山 長善寺(鏡野町)

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壽寳山 長善寺
 寺の創設は古く、高野山聖無動院が本寺で、開祖、年代は不詳です。当初は富西谷字名越の高台にあり、山中山長善寺と呼ばれていました。
 平安末期、富荘では総鎮守、布施明神の別当寺となっていました。
 享保六年(1720)頃火災により全焼し、縁起・寺宝等すべてを焼失しました。敷地付近には室町期の宝篋印塔など数基あり、往時の足跡を残しています。その後現在の平地に建立され、山号を壽寳山と改められました。
 当寺では村内八十八ヶ所のお参り場所が、大正五年に小豆島から勧請され栄えていましたが、戦後衰退し近年再興されお参りをしています。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)(写真:2019年10月5日)

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2019 天石門別(あめのいわとわけ)神社の紅葉

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 2019年11月17日美作三宮の天石門別(あめのいわとわけ)神社の紅葉を眺めに行ってきました。
 美作三宮といわれる天石門別(あめのいわとわけ)神社は、社殿の後に滝があることから滝宮とも呼ばれています。創建は不詳ですが、社伝によると吉備津彦命が古代吉備の国平定のため西下した際、当社の祭神天手力男命(あめのたじかろうのみこと)の助けで平定できたお礼として、当地を選び、自ら祭主となって鎮斎されたと伝えられています。社地には、籠殿、拝殿、本殿が整っているうえに、古代祭祀遺跡「盤境」(いわくら)といわれる石積の塚も残っています。環境庁・岡山県(看板より)
2012年の様子)(2015年の様子)(琴弾の滝

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青勝窯 勝間田焼きの窯だし

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 2019年10月14日に青勝窯(勝田郡勝央町岡)の勝間田焼きの窯だしに伺って来ました。ここでは、勝間田焼き復活会の皆さんがノースビレッジ北約200mの所の窯で仲間と共に勝間田焼きを続けておられます。奥田福泰のお話では、
 勝間田焼は、古墳時代に朝鮮半島から伝わった須恵器生産の技術を受け継いで焼成されたもので、青灰色で非常に硬質な焼き物です。その生産は勝間田窯(勝田郡勝央町)で行われ、現在窯跡として十数か所が確認されています。製品は碗・小皿の食器類からこね鉢等の調理具、壺、甕等の貯蔵具など多様で、主に美作地域から山陰まで広域に流通していました。しかし、鎌倉時代までに生産の終焉を迎えることになったそうです。

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黒見山 寶聚院 観音寺(美作市)

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 美作市にある観音寺は、別名もみじ寺と呼ばれ親しまれているお寺です。11月上旬にはもみじ祭りが開催され、写真や俳句コンテストなどが賑やかに行われます。境内には色とりどりのモミジが絵にも言われぬくらい美しく思わず写真を撮りたくなります。
(作東町指定天然記念物 観音寺の森)
東作誌によるとこのあたりは江見の郷のうちで山家五か村を称して「山家の庄」といったという。その景観を今も残しているのがこの森だそうです。(2014年11月16日取材の時の様子

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岸田吟香記念館(美咲町)

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美咲町旭文化会館(図書館、岸田吟香記念館)(美咲町西川1001-7)
 岸田吟香は天保4年(1833)4月28日に久米郡中垪和谷村(現在の久米郡美咲町栃原)で父、秀次郎、母、小芳の5男3女の長男として生まれる。
 幼少年時代の吟香は、大きな体で活発な子どもであったという。幼い頃から神童といわれ、4歳の頃にはすでに「唐詩選」を暗唱していたことからもいかに秀才だったかがうかがえる。5歳のとき、垪和の宝寿寺の住職が開いていた寺子屋で学び、12歳で坪井の大庄屋、安藤簡斉のもとへ学僕として住み込むことになる。吟香が坪井にいたのは、12歳から14歳までの2年間。この2年間で、坪井で学ぶものはないとみた簡斉は吟香を津山へ出し、はじめ永田孝平、次いで植原存軒に漢学を学ばせ、かたわら矢吹正則に就いて剣道を修めさせた。吟香が津山で学んだ期間はほぼ5ヶ年、その間津山郊外の高田村にある善応寺で私塾を開き、村の青年たちに四書五経や日本外史などを教えながら、勉学につとめていた。

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第25回 花の山寺 桜と紅葉まつり

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 2019年11月3日~11月17日まで「第25回 花の山寺 桜と紅葉まつり」が真庭市にある普門寺で開かれました。11月9日に伺ったのですが、モミジがすでに紅葉しているもの、これから紅葉するもので赤、黄色、緑と色鮮やかでした。また、近くでは、そばや団子等の特産品の販売もありました。
ここは、一年のうちに数回の花を咲かせる「四季桜」でも有名なお寺です。今年、びっくりしたのは菅官房長官のお人形が出迎えてくれました。本当によく似ていました。(2017年5月14日取材

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岸田吟香生誕の地と岸田家墓地(美咲町)

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  岸田吟香は天保4年(1833)4月28日に久米北条郡中垪和谷村(現在の久米郡美咲町栃原)で父、秀次郎、母、小芳の5男3女の長男として生まれる。
 幼少年時代の吟香は、大きな体で活発な子どもであったという。幼い頃から神童といわれ、4歳の頃にはすでに「唐詩選」を暗唱していたことからもいかに秀才だったかがうかがえる。5歳のとき、垪和の宝寿寺の住職が開いていた寺子屋で学び、12歳で坪井の大庄屋、安藤簡斉のもとへ学僕として住み込むことになる。吟香が坪井にいたのは、12歳から14歳までの2年間。この2年間で、坪井で学ぶものはないとみた簡斉は吟香を津山へ出し、はじめ永田孝平、次いで上原存軒に漢学を学ばせ、かたわら矢吹正則に就いて剣道を修めさせた。吟香が津山で学んだ期間はほぼ5ヶ年、その間津山郊外の高田村にある善応寺で私塾を開き、村の青年たちに四書五経や日本外史などを教えながら、勉学につとめていた。(文:岸田吟香記念館『岸田吟香』より)(2019年8月18日撮影)

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梅本山 観音寺(鏡野町)

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 弘仁十三年(823年)、山岳権現信仰の発達していた時代、藤原雄友の創建で、この地の泉山山中に井水権現を本尊として神仏混合の社殿を建立し、当観音寺はその宿坊の役目をしていました。
 後に勢力分離の国策のため、泉山に泉嵓神社として残し、観音寺は今この地に移転されました。その後は西屋城の戦でこの地に没した多くの兵士の菩堤を弔うために、慶長五年(1600)に頼照上人が中興となって再建されました。
 山号に梅本山とあるのは、菅原一族の一部がこの地に土着して、道真公を奉祠したのを契機に、梅本山と号したのだと思われます。
 持佛堂に阿弥陀如来と秘佛の訶利帝母尊(鬼子母神)をお奉りしていますので、子育てのお寺として信仰されています。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)(写真:2019年10月日)

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