地域別

鉾ノ原薬師堂(加茂郷88ヶ所霊場第83番札所)

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 鉾ノ原薬師堂(加茂郷88ヶ所霊場第83番札所)は、加茂町黒木鉾ノ原の黒木ダム1km位の民家脇を山の中に数百メートル入ったところにあり、木造トタン葺き、外壁はトタン張り。本尊は薬師如来です。(先達は木元林造さん)(2022年11月9日撮影)

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庄原大師堂(加茂郷88ヶ所霊場第81番札所)

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 庄原大師堂(加茂郷88ヶ所霊場第81番札所)は、加茂町倉見庄原地内の基幹林道上にある。木造トタン葺き、外壁はトタン張りです。本尊は薬師如来です。(先達は木元林造さん)(2022年11月9日撮影)

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2025 富阪さん宅のバラの花達(美作市)

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2025年5月29日、4年ぶりに美作市にある富阪皓一さんのバラ園を訪ねてきました。
 曇り空で、しかも夕刻の訪問となったため、少し画面が暗くなってしまいました。富阪さん宅のバラ園には只今630株、570種のバラと、クレマチス110種が植えられています。中には殿堂入りのバラもあり紹介していただきました。
 只今、真っ盛りのバラ園、オープンガーデンではないのが残念ですが、常連のバラのお好きな方や友人たちが毎年来られるそうです。毎年、進化し続ける素敵なバラ園でした。

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丸山山妙願寺大師堂(加茂郷88ヶ所霊場第72番札所)

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丸山山妙願寺大師堂(加茂郷88ヶ所霊場第72番札所)は、加茂町樽井後の民家の横にあります。建物はコンクリートで作られています。本尊は釈迦如来です。(先達は木元林造さん)(2022年11月9日撮影)

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楢井前大師堂(加茂郷88ヶ所霊場第71番札所)

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楢井前大師堂(加茂郷88ヶ所霊場第71番札所)は、加茂町樽井地内にあり、県道の道路脇の公会堂の横にあります。木造、白壁で、本尊は弘法大師です。(先達は木元林造さん)(2022年11月9日撮影)

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尾路大師堂(加茂郷88ヶ所霊場第76番札所)

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尾路大師堂(加茂郷88ヶ所霊場第76番札所)は、加茂町原口尾路にあり、75番札所右側の谷の奥の民家の上の小高い所にあります。ブロック造り、屋根はコンクリート体型です。本尊は阿弥陀如来です。
(先達は木元林造さん)(2022年11月9日撮影)

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四国八十八ケ所霊場巡拝<第85番~第88番>

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 2024年11月7日・8日 津山市河面にある墨池山 清龍寺さんの四国八十八ヶ所霊場巡拝に参加させていただきました。今回は第80番 国分寺~第88番 大窪寺までの9ヶ寺を(一泊二日)で巡ってきました。清龍寺さんを朝8:00に出発して四国八十八ケ所霊場巡拝の旅へ。
 2日目の順路は、 第85番 八栗寺 ⇒ 第86番 志度寺 ⇒ 津田の松原(昼食) ⇒ 第87番 長尾寺 ⇒ 第88番 大窪寺 ⇒ 附中湖PA ⇒ 高梁SA ⇒ 津山でした。

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四国八十八ケ所霊場巡拝<第80番~第84番>

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 2024年11月7日・8日 津山市河面にある墨池山 清龍寺さんの四国八十八ヶ所霊場巡拝に参加させていただきました。今回は第80番 国分寺~第88番 大窪寺までの9ヶ寺を(一泊二日)で巡ってきました。清龍寺さんを朝8:00に出発して四国八十八ケ所霊場巡拝の旅へ。
 順路は、1日目は、第80番 国分寺 ⇒ 第81番 白峯寺 ⇒五色台(昼食)⇒第82番 根香寺 ⇒ 第83番 一宮寺 ⇒第84番 八島寺 ⇒ 庵治温泉(泊) 第85番 八栗寺 ⇒ 第86番 志度寺 ⇒ 津田の松原(昼食) ⇒ 第87番 長尾寺 ⇒ 第88番 大窪寺 ⇒ 附中湖PA ⇒ 高梁SA ⇒ 津山でした。

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菖蒲(あやめ)を愛(め)でる会

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 友人から誘いを受け、2025年5月4日津山市神戸にある、後醍醐天皇復活の宮 作楽神社で「菖蒲(あやめ)を愛(め)でる会」があり出かけてきました。
 菖蒲の咲くころ何度か来させていただいていますが、今年の菖蒲は何とも言えない綺麗な色で思わず引き込まれていくようでした。
 4日の境内では沢山の方々が来られていて賑やかでした。また、詩吟、琴の演奏、謡曲などがあり、気持ちのいい青空の下で琴の演奏を聴いたり、散策したりしてきました。海外の方の姿も見かけましたよ。

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森家と三日月藩(佐用町)

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 森家はもともと清和天皇からの流れを汲む氏族といわれ、相模国森郷を領したのち森氏を名乗ったと伝えられています。森家が歴史上に現れるようになるのは16世紀、森可成のころからで、可成はのちに織田信長に仕え美濃国金山を領することになります。
 また森家は著名な人物も多く輩出しており、この中でも先の森可成のほか森長可や森長定(蘭丸)などは特に有名な歴史上の人物としてよく知られています。
 三日月藩森家にはこのような氏族の後裔(こうえい)として森忠政が開いた津山藩森家(現岡山県津山市)を本家とし、その分流として成立します。慶安二(1649)年、後の三日月藩租である森長俊は二代津山藩主森長継の子として生まれ、延宝四(1676)年には藩主森長武に領内の一万五千石を分け与えられ津山新田藩を開きます。
 しかし元禄十(1697)年、本家である津山藩森家が改易となったときに森長俊は播磨三日月の地に移され、ここに三日月藩が始まることになります。
 三日月藩の領地は現在の三日月町、佐用町、上月町、南光町、新宮町、山崎町の一部にまたがり、佐用群内では四十の村、新宮では七の村、穴粟郡では十八の村の計六十五村を数え、石高は津山の頃と同じ一万五千石でした。
 後の三代俊春、四代俊韶のころには、今の岡山県と兵庫県内に四万石ちかくを預かり五万四千四百三十石を有したこともあったようです。
 さて、この長俊の後三日月藩の藩主は二代長記、三代俊春、四代俊韶、五代快温、六代長義、七代長篤、八代長国、九代俊滋と続くことになります。
 藩主の説話もいくつか残っており、初代長俊は長身で鼻筋が高く眼光の鋭い人であったといわれ、いまでも菩提寺(ぼだいじ)である高蔵寺(こうぞうじ)にはその面影を伝える木造が残されています。二代長記は氏神の日岡八幡宮(ひおかはちまんぐう)、菩提寺の高蔵寺の増築を行っています。三代俊春は学問を好み、四代俊韶も能書であったと伝えられ、また五代の快温も学問を好み私金でを投じて藩校廣業館(こうぎょうかん)を設立し、学問・武芸に力を入れたとされます。
 この後三日月藩は九代の俊滋のときには明治維新(めいじいしん)を迎え、さらに明治四年の廃藩置県(はいはんちけん)で藩知事(はんちじ)を免ぜられたことをもって三日月藩九代174年の治世は終わりを告げることとなりました。(文:兵庫県佐用郡三日月町発行『森家一万五千石の陣屋 三日月藩乃井野陣屋跡』より転載)(撮影2023年5月18日・20日)(佐用町許可済み)

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