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JR西日本 誕生寺駅(津山線)

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 誕生寺駅は、岡山県久米郡久米南町里方にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)津山線の駅である。
1898年(明治31年)12月21日 - 中国鉄道本線(現在の津山線)開業時に設置される。
1944年(昭和19年)6月1日 - 中国鉄道の鉄道部門が国有化され、国鉄津山線の駅となる。
1971年(昭和46年)11月15日 - 無人化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道の駅となる。
 津山方面に向かって右側に単式ホーム1面1線を持つ地上駅(停留所)。写真にもあるように、かつては相対式2面2線のホームであったが、交換設備は撤去されている。棒線駅のため、津山方面行きと岡山方面行きの双方が同一ホームより発車する。(文:『Wikipedia』より)(2017年9月15日撮影)

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笠場山福聚院 普門寺

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笠場山福聚院 普門寺 縁起
 木版略縁起によれば、「作州真嶋郡笠場山普門寺は往昔弘仁七年(816)吾弘法大師始めてこの山にあそび精修勤念したまう時に、祥瑞嶺上にあつまり閃光渓道に映ずるを観て、師深く求法の勝地なる事をさとり、ついに即ち本尊聖観音、不動、毘沙門の三尊並びに仁王の像を彫刻し、伽藍僧舎を草創して秘密瑜伽の道場をおこしたまう。しかるに、去る乱世の頃、仏閣ことごとく兵火に炎焼するといえども、彼の尊は泥中に入りて焼失したまう事なし。まことに上求菩提下化衆生の尊像なり。」とある。
 当時、普門寺周辺には、松本坊、一乗坊、中坊、新蔵坊の他数十戸の民家があり、耕地が開けていた。当山鎮守として、熊野三所権現を歓請し、北に大山を遙拝して信徒諸地より雲集していた。なお、本堂は寿永二年(1183)春、享保八年(1723)に再建され、辻氏安兵衛秀勝氏によって再建された記録もあり、現在の建物は、明治二十八年(1895)秋に再建されたものである。
常内に安置されている龍の彫刻(干ばつ時雨乞いの祈祷に用いた)は元禄二年(1689)当時の欄間である。(文:石碑より)(2017年5月14日取材)

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イナバママと彼岸花めぐり

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2017年9月26日(火)朝から良い天気になった津山市です。でも、明日からは雨とのことで、急いで彼岸花めぐりに出かけようとしたら、ママは彼岸花が大好きだとの話を伺って、では一緒に行こうという事になり、真庭市の川東公園に行って来ました。ここは昨年も行きましたが、彼岸花が見事な所です。

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JR津山線弓削駅駅舎(岡山県最古の駅舎)

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 2017年9月15日に近くまで来たので、岡山県で最も古いとされる弓削駅に立ち寄って来ました。
 弓削駅駅舎は、岡山県最古の木造駅舎で築後115年を迎えた。
 弓削駅がある中国鉄道津山線(現在のJR津山線)は、県下で二番目の路線として1898(明治31)年12月21日に、岡山市駅から津山駅(現在の津山口駅)間が開通した。駅舎は、床面積に大小はあるが形状はほぼ同じで、当初は九駅であった。現在、開通当寺の駅舎が残るのは、玉柏・弓削・誕生寺の三駅のみであるが、玉柏駅は本屋の半分が減築され、誕生寺駅は下屋の桁に補強材の追加・方杖の部材などに変更がみられる。

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片山 潜 記念館(久米南町)

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郷土の偉人・片山潜
 片山潜は1859年(安政6年)久米南町羽出木の庄屋、藪木国平(父)きち(母)の二男として生まれ、幼名を菅太郎といい19歳まで勉学のかたわら家業に精励した。その後片山幾太郎(建部町下神目)の養子となり(徴兵回避のためともいわれる)のち復籍し、さらに片山常吉(久米南町塩之内)の養子となる。この頃、名を片山潜と改める。
 1884年(明治17年)26歳で渡米、働きながら苦学し、グリンネル大学などを卒業し、その間、社会問題、労働運動に関心を持ち社会主義者となった。そして38歳の時、13年ぶりに帰国、明治30年にキングスレー館を開き社会主義、労働運動の啓蒙、普通選挙の実現や反戦平和の運動など多彩な文筆活動、実践運動に専念し日本の社会主義運動に偉大な足跡を残した。
 大正3年9月9日、日本での弾圧下を逃れて渡米し永遠に日本には帰らなかった。
 1922年(大正11年)の暮れにコミンテルの極東民族大会(ロシア)に参加して議長を務めるなど、精力的な活動を続け1933年(昭和8年11月5日13時50分)クレムリン病院で故郷羽出木の秋の空を欧州第一のトロサックスの空よりも美しいと遠く故郷に想いをはせつつ74歳の生涯を閉じた。
(久米南町観光協会)

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大山みちを歩こう会(第2区)

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2017年5月14日、「第2回 大山みちを歩こう会」に参加して来ました。お世話になったのは、主催:出雲街道 勝山宿の会さんです。当日は爽やかな天気になり、用意された観光バスは県下各地からお集まりの皆さんで超満員でした。津山からも沢山の方々が参加されていました。途中で少し急な坂を下ってきましたが、後は比較的なだらかな坂道でした。触れ合う人々も楽しい人ばかりで、孫を連れて参加された方もいらっしゃいました。歴史をたどりながら皆で歩くのは楽しいものですね。

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狩野 久先生と巡る飛鳥の旅(奈良)

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2016年4月24日、「狩野 久先生(奈良文化財研究所名誉研究員)と巡る飛鳥の旅」と題して、奈良県明日香地方を訪ねてきました。朝7:00津山市役所⇒10:30飛鳥資料館⇒11:30甘樫丘⇒12:30あすか野(昼食)⇒13:30石舞台古墳⇒14:30伝飛鳥板蓋宮跡⇒15:30飛鳥寺⇒16:30藤原宮跡⇒20:00津山市役所着で盛りだくさんの行程でした。
 今回は、狩野先生がご案内くださるとのことで、大勢の皆さんが参加されていました。
飛鳥資料館では、第一展示室で、高松塚古墳をはじめとする古墳の出土遺物、日本最初の水時計である水落遺跡や飛鳥寺・川原寺など、飛鳥を代表する遺跡の出土品と模型が展示してありました。
また、第二展示室の山田寺東回廊は、現存する世界最古の木造建造物である法隆寺よりも古く、1,000年以上もの間地中に眠っていた建築部材を使い、保存処理に14年という歳月がかかったという記憶に残る回廊でした。

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狩野 久先生と藤原宮跡を巡る

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2016年4月24日、「狩野久先生と巡る飛鳥の旅」と題して、奈良県明日香地方を訪ねてきました。
 今回は、盛りだくさんの行程の中で最後となる藤原宮跡の様子です。

特別史跡 藤原宮跡(奈良県橿原市高殿町外)
 史跡指定 昭和21年11月21日 特別史跡指定 昭和27年3月29日
 藤原京は、持統天皇八年(694)から和銅三年(710)まで、持統・文武・元明天皇三代にわたる都でした。藤原宮はその中心部にあり、現在の皇居と国会議事堂、および霞が関の官庁街とを一か所に集めたようなところです。大きさはおよそ900メートル四方、まわりを大垣(高い塀)と濠で囲み、各面に三か所ずつ門が開きます。中には、天皇が住む内裏、政治や儀式をおこなう大極殿と朝堂院、そして役所の建物などが建ち並んでいました。

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狩野 久先生と石舞台古墳を巡る

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2016年4月24日「狩野久先生と巡る飛鳥の旅」行程の一つ、石舞台古墳を見学してきました。
石舞台古墳の解説
 この石舞台古墳は、横穴式石室を持つ方形墳で、築造は7世紀の初め頃と推定されます。既に古墳上部の封土は失われ巨大な天井石が露出した姿になっています。被葬者は不明ですが、6世紀後半にこの地で政権を握っていた蘇我馬子の墓ではないかといわれています。

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百乢の地蔵菩薩立像

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 百谷(ももたに)のはずれを左にとり急坂を登りきると百乢(百谷峠)に辿りつく。百乢は往来随一の難所といわれ、坂道の距離十七町余、百乢には一里塚があった。『作陽誌』によれば百谷や一里塚について次のように述べている。「百谷は井坂村にあり近世井村という(注:百谷村は井村と寺ヶ谷村に分かれている)。坂路は峻高で後から登る人は前を行く人の腿が見えるのでモモタニの名がついた。腿と百は訓が相通じるので今では百谷という。坂長十七町余、峠に里堠がある。養野村に通じ百谷越という。伯州通路なり」とある。一里塚のあったとされる場所に、朝倉兵衛門の寄進による石造地蔵菩薩立像(峠地蔵)が旅人の安全を祈願して建つ。年銘は読み取れないが、中養野の地蔵菩薩(六地蔵)に朝倉平右衛門の名がみえる。「施主 御茶屋□倉平右エ門」とある。□は欠損部分であるが、峠地蔵と合わせてみれば同一人物に間違いない。したがって、他の六地蔵の年銘が寛政四年であるので、峠地蔵もこのころの建立であろう。(文:『第6節 近世の交通』より)(2017年4月30日撮影)

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