寺(※要整理/観光情報/ジャンル別/史跡・歴史的建造物)

2025 清眼寺のぼたん・シャクヤク祭り

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 令和7年(2025)4月21日、院庄にある極楽山 清眼寺の「ぼたん・シャクヤク祭り」(ぼたん百種300株、シャクヤク50株)に行ってきました。お祭りは4月19日から始まっていますが、4月21日に行った時はまだ咲き始めの様子でした。これから先は境内を埋め尽くすような鮮やかなぼたんの花等が見られると思います。また、期間中は様々な催しもあるそうです。(過去の取材から

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2025 長継山 千年寺のさくら満開の頃

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 2025年4月9日の長継山千年寺は、長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した寺です。 今は、桜の木が大きく育って、とても綺麗に整備されています。(2014年4月6日の取材

 現存するものは境内地と風致林、それから長継公五輪墓(津山市の文化財)を中心に石柵、石窓和尚・関森和尚の碑、仏殿(本堂)・寿光堂の礎石、中の段は鐘楼、井戸、禁葷酒の石柱、山門の礎石、刹竿の双柱の1本、三 箇所の石段、千年寺への道しるべ石柱2本、下に井戸1箇所と南側の山即ち玉几岡に生き仏(開山鐡堂和尚)の墓があります。
(庫裡を取壊した後、大東亜戦中に疎開して来ておられ、昭和50年千年寺徒弟となった梅本南山翁が昭和61年まで居住)

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2025 千光寺の枝垂れ桜と椿の花

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 2025年3月31日の千光寺の枝垂れ桜と椿の花を愛でてきました。
寺は歴史景観地区に位置し、境内には樹齢150年(推定)のしだれ桜があり、開花時には県下はもとより京阪神からも写真家・歌人等が多く訪れるところです。この枝垂れ桜は、高さ約15m、枝張り幅約18mありますが、近年枝が折れたりして可愛そうですが、山門左に植えられている枝垂れ桜が大きくなり見事です。また、境内には沢山の椿が植えられており、中でも山門横に植えられている有楽椿(別名太郎冠物)は、織田有楽(信長の弟)が愛した椿だそうです。(2009年の取材記事

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『秋の本源寺伝来書画展』~作州維新文庫共催~

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 2024年10月18日~20日まで、『秋の本源寺伝来書画展』~作州維新文庫共催~(主催:森忠政公報恩会)が、津山市小田中の東海山 本源寺にて開催され、最終日の20日のあわただしい最中に伺ってきました。これだけ多くの作品が所蔵されていることにびっくりしました。まさに宝の宝庫です。
 今回は駆け足で拝見したのですが、次回展示が行われるときにはじっくりと拝見したいと思いました。(2024年10月20日撮影)

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しだれ桜満開の千光寺です。

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 2024年3月29日の千光寺のしだれ桜の様子です。
この日は、大勢の方が満開のしだれ桜を見学に来ておられました。中でも目立ったのは、海外のお客さまでした。それに小さなお子様連れの家族の方などでした。千光寺のメインのしだれ桜は老木となっていますが、今年も見事に満開の姿を見せてくれました。また、大きくなった駐車場側のしだれ桜がとても綺麗でした。駐車場側の、さんしゅうの花も満開で、黄色い花がひときわ目立っていました。

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2024 本行寺のさくら満開です。

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204年3月27日津山市西寺町にある日蓮宗 延寿山 本行寺境内のひがん桜が満開を迎えています。
 先日、新しく植えられた啓翁桜(けいおうざくら)が満開になっていると連絡を頂き3月19日と27日に伺って来ました。10年前には境内になった見事なしだれ桜の木もあったのですが、老木となり淋しい姿になっていました。啓翁桜はまだ若木でそんなに大きくはないのですが、ひがん桜よりはやや薄いピンクの可憐な花びらが咲いていて、とても可愛いさくらの花でした。また、根元には他の数本の啓翁桜も咲いていて、これから大きくなって楽しませてくれると思います。

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瑠璃山 本光寺(東一宮)

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瑠璃山 本光寺案内
 長徳(995)のころより薬師如来を安置して、神徳寺と称す。
 寛文(1661)のはじめ津山藩二代目森長継(ながつぐ)、黄檗(おおばく)の木庵禅師の高弟鉄堂に帰依し本光寺と改名。
 東一宮中村(ちゅうむら)七十五石六升六合、西一宮湯谷(ゆだに)村七十四石九斗二升四合、計百五十石を禄高として復興、森家菩提寺となる。
 元禄十年(1697)、森家改易と共に一時寺領退転となるも、森家の族、播州乃井野の城主、森對馬(もりつしま)守長俊、同備中新見の城主、関備前守長治(せきびぜんのかみながはる)、同赤穂加里屋の城主、森和泉守長直(いずみのかみながなお)等の諸候より茶湯料(ちゃとうりょう)として各高十石宛寄附あり。
 且、松平家津山へ入城の後、その由緒特殊なるを以って、寺格取扱最鄭重にして年々高米寄附あり しかし明治維新に及び諸候の寄付は全く廃絶 戦後の農地改革(昭和22年)、を経て今日に至る。
 境内は天然の砦を成していて、両側の外堀「放生池(ほうじょういけ)」を通って境内に入る。門前に鉾立(ほこたて)石、土塀には銃眼もみられる。また、裏庭は自然をとり入れた「蓬莱(ほうらい)の庭」と呼ばれ造園は衆楽園と同じ長継である。

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東賀茂神社隣の安井大師堂

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 勝北町安井宇根にある大師堂は、通称庵と呼んでおり、真言宗の祖弘法大師の像を祀る堂宇で奥行二間半桁行一間半で大正元年に建て替えられ、そのご二度の修復をへて今日に至っている。
大師堂の建立の由緒は定かでないが、明治初期に毘沙門天が勧請されてから別名毘沙門さまと呼ぶようになった。
そこには、数本の石仏が並び、中でも中央の地蔵菩薩は美しい姿をとどめている。
天明、寛政年間、この地方に多くの石仏を遺した泉州の石工、松尾伊八らの手によって造られたのではなかろうか。天明年間は、天変地妖相次いで起き、国中の者は草の根、木の皮まで食い尽くし飢と病で多くの人が死んでいった過酷な時代であった。飢餓は、八年にも及び諸国の百姓は地獄の苦しみに喘ぎ、何に救いを求めようもない村の人達は、僅かな浄財を出し合い地蔵さんを建て死んでいった人々の供養と菩薩の慈悲にすがった。
安井庵文書を繙くと庵には、代々庵僧が寄寓していたことが伝えられており、天保時代より出羽の国の三九郎夫婦、生国因州の庵僧、旧浜田藩の松田佳次郎などの庵僧の墓が近くの草叢に眠っており、他国の人々を庵僧として温かく迎え入れた厚い人情を村の人々は今でも誇りに思っている。
大師堂のかたわらには大きな庫裡があって昭和二十五年に取り壊し今は、堂宇一つを残すのみとなった。
苫勝霊場二十五番札所の大師堂は、毎年桜の花の咲く頃、苫勝霊場めぐりの遍路で賑い村の風物詩でもあったが、今では知る人もだんだん少なくなり、毎月二十一日の大師の縁日に古老達によって念仏が上げられている。
(勝北町文化財保護委員平田安男記)(平成12年12月19日取材)

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岩谷山 「妙福寺」(津山市中北上)

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岩谷山 妙福寺(日蓮宗)沿革 (2012年5月13日取材)
 日蓮宗妙福寺の開基は、文明元年(1469年室町中期)日了聖人によるものであります。当初は坪井上福本の「寺山」にあったが、天正12年(1584年桃山中期)花房職秀により、現在の地に移されました。
 妙福寺は、岩屋城と関係は深く、天正10年(1582年)には、本能寺の変があり、続いて高松城の落城、この時の岩屋城主は中村頼宗でありました。頼宗は元来、毛利方であり、美作には毛利恩顧の者は多く、死をもって忠誠を表すことを決意していました。

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「地蔵院」と「宕々庵」(とうとうあん)

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地蔵院をお尋ねして谷崎潤一郎さんが、一時疎開していたという「宕々庵」(とうとうあん)のことをお聞きしてみましたが、もはや、写真も資料もないとのことで残念でした。今は、影も形もありませんが、地蔵院内にある愛山廟の前にダンジリ庫が建っているところにあったそうです。写真からうっすらわかるでしょうか?この写真は得能さんからお借りしたものです。記録では、庭には梅とつつじ、キリシマが植えられていたそうです。
誰か写真をお持ちではないですか?(2012.6.20)取材、前回の取材はこちら

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