寺(※要整理/観光情報/ジャンル別/史跡・歴史的建造物)

瑠璃山 本光寺(東一宮)

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瑠璃山 本光寺案内
 長徳(995)のころより薬師如来を安置して、神徳寺と称す。
 寛文(1661)のはじめ津山藩二代目森長継(ながつぐ)、黄檗(おおばく)の木庵禅師の高弟鉄堂に帰依し本光寺と改名。
 東一宮中村(ちゅうむら)七十五石六升六合、西一宮湯谷(ゆだに)村七十四石九斗二升四合、計百五十石を禄高として復興、森家菩提寺となる。
 元禄十年(1697)、森家改易と共に一時寺領退転となるも、森家の族、播州乃井野の城主、森對馬(もりつしま)守長俊、同備中新見の城主、関備前守長治(せきびぜんのかみながはる)、同赤穂加里屋の城主、森和泉守長直(いずみのかみながなお)等の諸候より茶湯料(ちゃとうりょう)として各高十石宛寄附あり。
 且、松平家津山へ入城の後、その由緒特殊なるを以って、寺格取扱最鄭重にして年々高米寄附あり しかし明治維新に及び諸候の寄付は全く廃絶 戦後の農地改革(昭和22年)、を経て今日に至る。
 境内は天然の砦を成していて、両側の外堀「放生池(ほうじょういけ)」を通って境内に入る。門前に鉾立(ほこたて)石、土塀には銃眼もみられる。また、裏庭は自然をとり入れた「蓬莱(ほうらい)の庭」と呼ばれ造園は衆楽園と同じ長継である。

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東賀茂神社隣の安井大師堂

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 勝北町安井宇根にある大師堂は、通称庵と呼んでおり、真言宗の祖弘法大師の像を祀る堂宇で奥行二間半桁行一間半で大正元年に建て替えられ、そのご二度の修復をへて今日に至っている。
大師堂の建立の由緒は定かでないが、明治初期に毘沙門天が勧請されてから別名毘沙門さまと呼ぶようになった。
そこには、数本の石仏が並び、中でも中央の地蔵菩薩は美しい姿をとどめている。
天明、寛政年間、この地方に多くの石仏を遺した泉州の石工、松尾伊八らの手によって造られたのではなかろうか。天明年間は、天変地妖相次いで起き、国中の者は草の根、木の皮まで食い尽くし飢と病で多くの人が死んでいった過酷な時代であった。飢餓は、八年にも及び諸国の百姓は地獄の苦しみに喘ぎ、何に救いを求めようもない村の人達は、僅かな浄財を出し合い地蔵さんを建て死んでいった人々の供養と菩薩の慈悲にすがった。
安井庵文書を繙くと庵には、代々庵僧が寄寓していたことが伝えられており、天保時代より出羽の国の三九郎夫婦、生国因州の庵僧、旧浜田藩の松田佳次郎などの庵僧の墓が近くの草叢に眠っており、他国の人々を庵僧として温かく迎え入れた厚い人情を村の人々は今でも誇りに思っている。
大師堂のかたわらには大きな庫裡があって昭和二十五年に取り壊し今は、堂宇一つを残すのみとなった。
苫勝霊場二十五番札所の大師堂は、毎年桜の花の咲く頃、苫勝霊場めぐりの遍路で賑い村の風物詩でもあったが、今では知る人もだんだん少なくなり、毎月二十一日の大師の縁日に古老達によって念仏が上げられている。
(勝北町文化財保護委員平田安男記)(平成12年12月19日取材)

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岩谷山 「妙福寺」(津山市中北上)

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岩谷山 妙福寺(日蓮宗)沿革 (2012年5月13日取材)
 日蓮宗妙福寺の開基は、文明元年(1469年室町中期)日了聖人によるものであります。当初は坪井上福本の「寺山」にあったが、天正12年(1584年桃山中期)花房職秀により、現在の地に移されました。
 妙福寺は、岩屋城と関係は深く、天正10年(1582年)には、本能寺の変があり、続いて高松城の落城、この時の岩屋城主は中村頼宗でありました。頼宗は元来、毛利方であり、美作には毛利恩顧の者は多く、死をもって忠誠を表すことを決意していました。

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「地蔵院」と「宕々庵」(とうとうあん)

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地蔵院をお尋ねして谷崎潤一郎さんが、一時疎開していたという「宕々庵」(とうとうあん)のことをお聞きしてみましたが、もはや、写真も資料もないとのことで残念でした。今は、影も形もありませんが、地蔵院内にある愛山廟の前にダンジリ庫が建っているところにあったそうです。写真からうっすらわかるでしょうか?この写真は得能さんからお借りしたものです。記録では、庭には梅とつつじ、キリシマが植えられていたそうです。
誰か写真をお持ちではないですか?(2012.6.20)取材、前回の取材はこちら

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道祖谷山 宝蔵寺(津山市加茂町)

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宝蔵寺
 当寺は斉野谷にあって、道祖谷山宝蔵寺と号し、天台宗比叡山延暦寺の末寺であり、本尊は大日如来である。貞観二年(860)慈覚大師円仁の開基と伝えられる。文化十二年(1815)頃には、無住寺で本堂四間四面南向、庫裏四間半八間、鐘堂、長屋、鎮守山王権現小などを残すのみであったが、「東西百間余、南北二百間余」の広い境内や、東林房、安養房、惣門などの旧跡が残存し、かつての大寺の面影を残していた(『東作誌』)。
二尺七寸の本尊大日如来坐像、脇立の不動明王と毘沙門天はいずれも作者不明であるが、文化十二年(1815)に『東作誌』に記録されているものであろう。(加茂町史より)2012.12.13取材

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金峯山修験本宗 長命山 多寶寺(旧勝北町)

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金峯山修験本宗 長命山 多寶寺
 往昔の吉備中山は和歌題詠の名勝であった。その中山の麓山形の地に、長命山 多宝院とと唱へる修験道場があり、慶長年中津山の城主森美作守忠政が、津山城艮の鬼門除祈願所として、陣具を奉納せられたとの傳があり、現在津山市大谷の石山摩利支天も此時に祀られたとのことである。昭和年中より文化年代に渉っての住職、七代目大僧都宗春、八代目権大僧都宗栄の二代は、相続いて苦行を修し、厄難除けと併せて、女人安産に霊験顕著であった。その為め世人の崇敬を受け、隆盛の道場であったが、慶応年中には無住となり、堂宇破損ついには風の為め倒壊するに至ったのである。當時堂内にあった佛像はこれを字水原に移し、小堂を建てて保存したのであったが、寺跡は明治以降山林と化し、其後周辺は開墾されて畑となり、僅かに寺号のみが傳へられたのであった。近年に至って宗教法人法附則第五項の規定によって、県知事の認証を得、昭和二十七年十一月十三日登記手続きを完了、寺号を長命山 多宝寺と号し、旧時の遺跡である、山形東俗称宇根の地に堂宇を建立、金峰山修験本宗に所属し、住職は管長の任命によって、大阿闇梨僧都孝範が就任し、再來天下泰平万民豊楽の祈祷を執行、毎朝鳴り渡る法螺貝の音は、那岐連峰にこだまして、勝北平野の静空を流れ、八万四千の煩悩の夢を覚して居るのである。(文:新野村史より)2012.10.27取材

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法然上人が修行した 高貴山 菩提寺

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菩提寺略縁起
 当山は、お念仏「南無阿弥陀仏」の元祖で、浄土宗を開宗されました「圓光大師法然上人」が、初めて仏教を学ばれた聖域にして、浄土宗史蹟であります。
 その草創は、持統天皇(41代)朱鳥6年(692)役の小角神変大菩薩が名木の神山(那岐山)に霊地を求め、この地に修験道場を開き、後に天平年中、聖武天皇(45代)の勅願によって行基菩薩が自ら十一面観音像を刻んで中堂に安置し、「元明天皇(43代)の菩提寺」として再興開基し、七堂伽藍三十六僧坊を建てめぐらし、四宗兼学の学問道場として各地から学僧が蝟集し、その興隆数百年に及んだ。
 その間"法相""天台""浄土""真言"と各宗変遷をたどり多くの名僧を輩出したが、殊に法然上人(幼名勢至丸)9才(1141)から13才まで、父漆間時国公の遺言によって、母方の叔父、勧学得業上人のもとで学問を始められた史実は、勅修「法然上人行状絵図」(四十八巻伝)に伝えられる処です。
 往古の伽藍の様相を、僅かに残る中古の記録によると、'本堂九間四面""観音堂五間四面""鎮守堂四間四面""不動堂二間六面""鐘堂二間四面""通堂九間"等々記されており、広大な規模を彷佛とさせられるものがあります。
 数百年の繁栄も、この地が険要であったが為、地方豪族の拠点として菩提寺城等の城砦を築き、戦国乱世に頻りに災禍を受けてついに天文2年、尼子義久の焼打によって、悉く灰燼となって以来衰微の一途を辿り、江戸末期僅かに残る草庵も焼失し、無檀、無禄につき復興のめどなしとして、一旦は廃寺となったが、法然上人遺蹟地の故、明治十年寺名再興浄土宗復宗の官許を得て作因両州近郷近在の檀越、信徒共々信心を凝して本堂再興(明治十三年)、以来現在に及んでいる。
1、本尊:十一面観世音菩薩 座像、嵯峨大覚寺から文久元年招来。
2、阿弥陀如来:芝増上寺から蔓延元年招来
3、勢至丸像:勢至丸様(法然上人幼名)の霊像で、阿弥陀如来と共に奉納された唯御一体の圓光大師少年姿、冷泉為恭の作。
4、守護神:摩利支天王を勤請し、境内の守護神として巌上に御鎮座
5、観覚塚:勢至丸様初学の師、観覚得業上人の御墓、熊谷蓮生(直実)の建立と言われる、石塔は近年の建替え。
6、大公孫樹:勢至丸様9才入山の際携えた、いちょうの杖を「我、未来に弘めんとする法門盛んならば、必ず繁生せん」と本尊に誓って挿し木したと伝えられている。
果たして念仏の興隆と共に繁茂し、目通り13m余高さ40m余の巨樹となり、昭和3年国の天然記念物に指定された。
資料提供:高貴山 菩提寺(2012年11月14日取材)

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法然上人 生誕の地 誕生寺(久米南町)

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誕生寺由来 (2012年11月18日取材)

 誕生寺は、浄土宗他力念仏門の開祖、法然上人降誕の聖地、建久四年(1193)法力房蓮生(熊谷直実)が、師法然上人の命を奉じこの地に来て、上人誕生の旧邸を寺院に改めたもの、すなわち誕生寺である本堂須弥壇の位置は上人誕生の室のあった所。
 爾来九百年の星霜を経て法灯絶えることなく全浄土教徒の魂の故郷と敬仰されている法然上人(圓光大師)二十五霊場の第一番。
 境内には、誕生椋、片目川、産湯の井戸など、永き歴史を物語るものがある。(資料提供:美作之国 誕生寺)

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岩間山 本山寺(美咲町)法然上人ゆかりの地

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天台宗 岩間山本山寺(いわまさんほんざんじ)

 大宝元年(701)頼観上人の創建で、本尊は観世音菩薩である。当初は南方の山頂に在ったが、天永元年(1110)現在地に移り、大いに発展して百廿十坊と言われた。
古来、山岳仏教の道場として、又、庶民信仰の霊地として栄えた。長承元年(1132)稲岡ノ庄(誕生寺)の漆間時国公夫妻が参詣、祈願して生まれたのが、後の浄土宗の宗祖と仰がれる法然上人(源空)である。降って江戸時代になると、津山藩の祈願所として、尊ばれ、又、森候の時代には、美作の天台宗の触れ頭であった。山内寺院のうち、遍照院・仏性院・梅元院の三院が院内頭であったが、今では皆、合併して本坊一ヶ寺となった。現在の境内地は四千二百坪、十余棟の堂塔伽藍は、昔に変らぬ面影を伝えている。
国指定文化財、本堂(1350)、三重塔(1652)、宝筐印塔(1335)
県指定文化財、常行堂(1519)、御霊屋(1652)、仁王門(1686)、長屋(1845)、宝筐印塔(1399)、鬼面(1362)、六角型舎利塔(1344)、絹本著色両界曼荼羅図二幅(鎌倉末期)
美咲町教育委員会 (案内板より)

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無量山 極楽寺(津山市加茂町)

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極楽寺縁起
 当寺は宇野にあって、無量山極楽寺と号し、真言宗古義派高野山理性院の末寺で、阿弥陀如来を本尊とする。開山は行基(668~749)と 伝えられる。もと字寺内にあって寺内山法幢寺と号していたが、元禄年中(1688~1703)に現在地宇野に移り新御堂山極楽寺と改め、のちさらに無量山 と山号を改めた。
 本尊阿弥陀如来像は、文政十二年(1829)に平城京真浄和上を開眼導師とし、妙法院(京都、三千院ー筆者)宮御内花房兵衛を 供養壇主として再興奉献されたもので、木造仏であり、三十三年毎開扉の秘仏である。また、三尊阿陀画幅は、古絹に三尊来迎図を描いたもので、京都、三千院 来迎仏にそっくりの名作である。また境内には直径4.6メートル、樹齢300年のカヤの木がある。(加茂町史 より)

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