青柳東薬師堂(加茂郷88カ所霊場10番札所)
青柳東薬師堂は、加茂町青柳東の民家の裏にあり、分かりにくい場所でした。本尊は薬師如来です。
土壁で比較的新しく立派なお堂です。由緒はわかりません。
(先達木元林造さん)(2022年10月4日撮影)
青柳東薬師堂は、加茂町青柳東の民家の裏にあり、分かりにくい場所でした。本尊は薬師如来です。
土壁で比較的新しく立派なお堂です。由緒はわかりません。
(先達木元林造さん)(2022年10月4日撮影)
加茂町青柳定本にある、加茂郷88カ所霊場9番札所の定本地蔵堂です。
この地区は平らな田んぼが広がり白金山が良く見渡せるところです。この地蔵堂は青柳中心部の保育園跡のメイン道路より少し高い所にある裏道路脇にあります。本尊は地蔵菩薩です。詳しい由緒はわかりません。(先達は木元林造さん)(2022年10月4日撮影)
加茂町青柳西ノ谷の民家横にあるお堂です。少し高台で白金山が良く見渡せる場所です。本尊は阿弥陀如来です。お堂の軒先にはいくつものお札が下がっていて、その昔には随分とお参りに来られる方がいたんだろうと思いをはせながらお詣りさせていただきました。(先達木元林造さん)(2022年10月4日撮影)
2023年6月3日(土)18:00~第2回「宮部川ホタルウォーク」のイベントがあり参加して来ました。(昨年も参加したのですが、ホタルを撮ることが苦手なのでホタルの写真は想像してください。)
当日はとても良い天候に恵まれたのですが、予報では線状降水帯が降るとのことで全てのイベントが中止になったそうです。また、夜になると少し肌寒く、ホタルも動きが鈍くなり飛ばないで、草むらに潜んでいるとのことでしたが、歩いてみると沢山のホタルと出会えました。
(2016年6月11日宮部上「トンボの里」公園で第19回宮部上ホタルまつり)
宮部川の環境とホタルを守る活動をしているホタルンジャーと一緒に、地元おススメのホタルの絶景スポットを歩いて巡りましょう。来年もこの美しい元風景を、ぜひ観に来てください。
主催は宮部川ホタルンジャーの会
津山市加茂町知和小原上にあり、本尊は薬師如来だそうです。千磐神社の前の県道(津山智頭八東線)と旧道の間の狭い道沿いの民家の隣で、土壁、トタン葺の加茂郷88カ所霊場第33番札所です。
加茂にお住いの木元林造さんに案内して頂かないと分かりませんでした。(2022年10月4日取材)
和泉山金龍寺由緒(加茂町百々)
人皇五十一代平城天皇御宇大同二年(807)丁亥ノ秋八月、大和国延鎭上人ノ開基ナリ。
此ノ山、泉涌故トテ泉山ト云フ。後、和泉山金龍寺ト云フ。
数年ヲ経テ大寺タリシガ、七十三代堀川院御宇承應元年(1652)五月、淋雨降リ続キ山崩本堂土中二埋レ百二十余年間葏閉タル野山トナル。
八十四代順徳院御宇宝永元年(1704)七月十八日、尊像現出シ玉ヒ再興在リテ紀洲高野山理姓院末流タリシガ、宝暦八年(1758)戌寅四月祝禍ニテ消失ス。
明和二年(1765)酉年三月再建。再建後高野山理姓院ノ旧縁ニテ行重村真福寺末寺トナル。
昭和63年3月 百々部落 加茂町観光協会(文:現地案内板より)(2022年11月9日撮影)
西登山金屋寺は、西谷の奥の山腹、木ノ口にある。(昭和46年2月10日村指定史跡)
金屋寺創建の由来については明確ではない。人口に膾灸されているところによれば、阿波村はこの地からタタラ稼業の集団によって開発された。
阿波村の地は、良質な砂鉄を含んだ真砂土(風化花崗岩)の山が多く、タタラ製鉄の跡と思われる鉄滓の散乱したところや、タタラ製鉄にまつわる地名も多く、古代から近世にかけてタタラ製鉄が行われていたことがしのばれる。
本来、タタラ製鉄に従事した稼業集団の人たちの信仰したのは金屋子神を祀る習慣をもっていた。金屋子神は自分たちの稼業の安全と加護を願って信仰する神であった。したがって、金屋子神も社はいわゆる自分たちの職場のところに建立されたものと考えられる。
2023年3月30日の千年寺の満開のさくら
長継山千年寺は、長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した寺です。 今は、桜の木が大きく育って、とても綺麗に整備されています。(2009年4月5日取材)(2014年4月6日取材)
徳川幕府と後水尾法皇は中国よりの渡来僧隠元禅師に帰依され宇治の地(後水尾法皇のご生母中和門院の別荘)を付与し、摂津国麻田藩主(青木氏一万石)を普請奉行として黄檗山万福寺を創建されました。
美作の国主森長継公(十八万六千五百石)も又隠元禅師に帰依し、領内に教義を具現する長継山千年禅寺の造営を発願されました。それは「泰国安民武運長久」を祈念すると同時に一種の公共事業でもありました。鎌田源太兵衛を普請奉行として農閑期に作業をし手当ては毎日支給をするように・・・又戦乱に備える要害としての機能も持たせています。
神楽尾の山城を一望に治める千年寺は鶴山城とも連繋されていたのです。千年寺一帯は西に紫竹川が流れ周囲の山を利用して進入路を大門(田邑川東向公会堂)に集結させ龍吟径を通って寺に入るようにし、他は谷の湿田を利用して侵入を防げました。
寛文八(1668)年十一月七日、長継山千年寺は創建され翌年の春、二月五日開山鉄堂和尚(美濃の出身)が入山致しました。
当寺は阿波村字大福寺1064番地の円山台地にあり、開基の年代は不詳である。「タタラ」製鉄には、砂鉄の採集、木炭の製造、残砂の整地、製品の運搬などに多くの人力が必要である。
往時の製鉄関連地名が残っている現在の中土居地区の堤・杣の谷・天王・樋の下・福籠・中山・鉄穴内一帯を中心に「タタラ」職人が集まって大きな集落が形成された。この集落に後年いつのころかに中土居円山台地の上に仏教寺田中山大福寺が建立され、本尊に大日如来が安置されたのである。
阿波村には、古くは寛延・安永ごろからの念仏供養巡拝碑が多く建立されている。光明真言霊場巡拝による弘法大師信仰は加茂谷にはかなり古い時代から信仰されていたようである。明治時代に入ってから一般に広く信仰されるようになり、特に加茂・阿波の仏教寺院と各地区にある地区堂を中心にして全加茂谷八十八ヵ所霊場、又阿波だけの八十八ヵ所巡拝霊場が設けられてからは特に村内広く民衆のなかに普及信仰されたようである。霊場巡り信仰が盛んになって、大福寺が加茂・阿波八十八ヵ所霊場の一環の中に組み入れられてから、大福寺に弘法大師の石像が本尊大日如来と並んで安置された、
大正から昭和にかけて巡拝最盛期には、数十人の一行が列をなして霊場を巡拝し、地区の堂・札所では、御詠歌を唱え、般若心経を読んで巡った。日が暮れるとそれぞれ数人ずつに分散し接待の家に宿泊して、加茂と阿波のとの札所を数日かけて巡拝した。特に春秋の彼岸には盛大であった。大福寺に籠り殿が増築されてからは、加茂阿波霊場の中でも重要拠点であった。次第に阿波円山大師堂と呼ばれるようになり、お籠りの信者も多くなり、時には数日、一ヵ月も長くお籠りを続ける信者もあったようで随分賑わったものである。(文:『阿波村誌』より転載)(2022年10月4日取材)
2023年4月8日・14日に津山市西下1100−1にある勝北総合スポーツ公園のツツジを観にやって来ました。毎年のようにツツジが咲くころ、散歩に来るのですが今年も綺麗なツツジが見えました。
綺麗にお手入れされた山々ですが、長年御世話されていた方が亡くなられてしまい、少し手が回らなそうですが、散歩道を整備してくださっている地区の人達に感謝です。