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日限り地蔵(一方)

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日限り地蔵
 『むかし、皿川に琵琶が渕という渕があった。ここでは、毎年身投げをする人があとをたたなかった。なんとかして身投げをさせないようにしようと相談し村の人たちは、とむらいをしないという立札を立てた。その後は身投げをする人がぱったりといなくなった。喜んだ村の人たちは、そこに、延命地蔵をまつった。人々はいつとはなしに日限り地蔵とよぶように成った。』
ところがこの地蔵が部落の境にあったので、けっきょく二つに分けてまつることにした。
 今の佐良神社のがけ下にあるのが本家で、すこし南の平福の道路ぞいにあるのが分家だといわれている。いつのころからか「日限り地蔵にお願いすれば、子どもがさずかるそうじゃ」といううわさが広まっていった。評判を聞いて、子どものほしい人がつぎつぎにおまいりするようになった。
お祭り当日には、子どもの健やかな成長と交通安全を祈って、ご祈とうをお願いしております。
ー岡山の民話よりー(文:現地説明板より)(2017年9月30日撮影)

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作州絣工芸館人気のツアー織実演の様子

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2017年10月18日、アメリカのミネソタ州、サウスダコタ州、オランダから織実演見学・棉繰り・糸紡ぎ・機織体験に10名の方が作州絣工芸館に来られ、作州絣が出来るまでのプロセスを学び、体験し、楽しんで帰られました。作州工芸館では、9月から8畳2間と広くなって織の体験ができるようになり、最近は日本ツアーの体験型が人気があるとのことで、作州絣工芸館にも海外から次々と来られているそうです。これからも海外の方々を積極的に受け入れて行かれるそうです。日本ツアー体験型の津山名所ができました。(2015年の取材)、(織り人養成講座作品展の様子

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青木神社(大谷)

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主祭神:伊邪那岐命・伊邪那美命、例祭:十月十日、境内地:七九二坪、主要建物:本殿・幣殿・拝殿 由緒沿革 創建年月等不詳。元扇宮と称し、大谷八伏の地にあり、社領八町歩を有し、地方における有力な神社である。天文年中尼子晴久の乱、永禄年中凶徒の乱により、古證文宝物等悉消失した。慶長八年森忠政公入封築城後塞神の処より大谷八伏に向けて大砲の訓練を行い支障があるので、森長継が、寛永十二乙亥年現在地に移転し、青木神社と改称した。明治五年村社に列した。(文:『岡山県神社誌』より)(2017年10月9日撮影)

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2017 大隅神社の秋季大祭

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2017年10月15日(日)津山まつりがスタートした。東の「大隅神社」の還幸は、雨の為イーストランドではなく、玉琳公会堂がお旅所になっていました。また、出動だんじりは、兼田・川崎・太田、玉琳・東松原・古林田・東新町・西新町・上之町7丁目・中之町・勝間田町の11台の予定でしたが、本まつりは残念ながら雨の為、太田・川崎・兼田の3台になりました。催し会場のイーストランド駐車場であったイベントの時間も雨の為少し早まって行われていました。関係者の皆様、雨の中をお疲れ様でした。(2015年の祭の様子です。)

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岩垣正道版画展(M&Y記念館)

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2017年10月14日に棟方志功・柳井道弘記念館(M&Y記念館)へ立ち寄ってみました。
版画の寺・毎来寺住職の岩垣正道版画展が平成29年10月1日~22日まで行われています。
「津山に私の大尊敬する、棟方志功記念館が開館して今年で10周年になります。そのような記念の年に版画個展が開けることはとても光栄に思います。県北の風景をテーマに制作してみました。」との岩垣正道さんのコメントが添えられていました。

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東賀茂神社隣の安井大師堂

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 勝北町安井宇根にある大師堂は、通称庵と呼んでおり、真言宗の祖弘法大師の像を祀る堂宇で奥行二間半桁行一間半で大正元年に建て替えられ、そのご二度の修復をへて今日に至っている。
大師堂の建立の由緒は定かでないが、明治初期に毘沙門天が勧請されてから別名毘沙門さまと呼ぶようになった。
そこには、数本の石仏が並び、中でも中央の地蔵菩薩は美しい姿をとどめている。
天明、寛政年間、この地方に多くの石仏を遺した泉州の石工、松尾伊八らの手によって造られたのではなかろうか。天明年間は、天変地妖相次いで起き、国中の者は草の根、木の皮まで食い尽くし飢と病で多くの人が死んでいった過酷な時代であった。飢餓は、八年にも及び諸国の百姓は地獄の苦しみに喘ぎ、何に救いを求めようもない村の人達は、僅かな浄財を出し合い地蔵さんを建て死んでいった人々の供養と菩薩の慈悲にすがった。
安井庵文書を繙くと庵には、代々庵僧が寄寓していたことが伝えられており、天保時代より出羽の国の三九郎夫婦、生国因州の庵僧、旧浜田藩の松田佳次郎などの庵僧の墓が近くの草叢に眠っており、他国の人々を庵僧として温かく迎え入れた厚い人情を村の人々は今でも誇りに思っている。
大師堂のかたわらには大きな庫裡があって昭和二十五年に取り壊し今は、堂宇一つを残すのみとなった。
苫勝霊場二十五番札所の大師堂は、毎年桜の花の咲く頃、苫勝霊場めぐりの遍路で賑い村の風物詩でもあったが、今では知る人もだんだん少なくなり、毎月二十一日の大師の縁日に古老達によって念仏が上げられている。
(勝北町文化財保護委員平田安男記)(平成12年12月19日取材)

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箕作阮甫旧宅(西新町)

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 箕作家のルーツ:近江源氏の一族で、佐々木姓を名乗り、平安末期から戦国時代の終わりまで、守護・戦国大名として近江一帯を治めていた。室町時代に佐々木22代高頼の子で箕作山(現滋賀県五箇荘町)の城主であった定頼が箕作氏を名乗ったことにより、箕作家は始まる。
 箕作家は津山藩の医者でした。阮甫は西新町で生まれ、江戸へ出て宇田川玄真について洋学を学びました。洋学の翻訳にも力を注ぎ著書や訳書がたくさんあります。

 我が国最初の医学雑誌を発行したり、オランダ語の文法書を発行して学問の発展に貢献しました。

阮甫は生涯一医者にとどまらず、経済・天文・法学・地理・物理・兵学など洋学者として、広く学問を修め、幕府の外交政策等にかかわり、近代日本の文明開化の先がけとなった一人で多くの業績を残した。まさに郷土の誇りである。勿論日本の誇りでもある。(文:前回取材より)(2017年8月30日撮影)

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森氏の祖 妙向尼創建 「法雲山 妙願寺」

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  妙願寺は、岡山県津山市戸川町にある浄土真宗本願寺派の寺院。「鶴山御坊」ともいう。山号を「法雲山」といい、美作国の触頭を務めた。
 森蘭丸の母・妙向尼の発願によって建立された。妙向尼は元亀元年(1570年)に始まった織田信長と石山本願寺との争い(石山戦争)の和睦成立に奔走し、本願寺の危機を救った人物である。
 信長は、本願寺との和睦に際して「森氏の金山城下に浄土真宗の寺院を建立、子息(妙向尼の子)の一人を出家」させることを条件に提示した。妙願寺はその事情の下に、最初は妙向尼の末子・森忠政を僧形として金山城下に建立する予定であった。
 しかし、天正10年(1582年)に起きた本能寺の変により、妙向尼の子息である森長定(蘭丸)・森長隆(坊丸)・森長氏(力丸)が信長と共に討死し、同12年(1584年)には小牧・長久手の戦いで二男蘭丸ら三兄弟の兄であった森長可(金山城主)が戦死してしまった為、ただ一人残った忠政が森氏の世継ぎとして金山城を継ぐこととなった。※詳しくは下記に続く。

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多禰神社(津山市種)

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多禰神社(旧村社)、主祭神:天児屋根命、例祭:十月十日、境内地:四二二坪、主要建物:本殿・拝殿・社務所
 由緒沿革 本神社創建年月由緒等不詳。もと春日神社、八幡神社、荒神社が各地に鎮座していたのを、元禄十二年十二月 村の中央の宮山の地に合祀して、多禰神社と改称した。
(文:『岡山県神社誌』より)(2017年10月9日撮影)

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赤白の彼岸花が綺麗でしたよ。

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川崎の緑地公園近くの土手に咲いた紅白の彼岸花が今年も美しく咲いていました。秋の彼岸の頃に忽然と現れて、真っ赤な花を咲かせるこの花は〔葉見ず花見ず〕とも呼ばれ、葉は花の時期にはなく、花が終わると伸びて来て秋から春まで生い茂ります。(2017年9月30日撮影)(2015年9月23日撮影

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