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新しく整備された京橋門

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 京橋門は、大手筋に位置する門です。堀にかけられた木橋を渡ると正面には石垣で囲まれた空間があり、右手に折れると門があります。これを桝形虎口といい、厳重な造りとしていました。現在、門や石垣は一部現存しているのみですが、絵図から、門は櫓門であったことがわかります。
 現存するのは桝形虎口西側の石垣とそれに続く土塁の一部ですが、土塁は明治の廃城以降も累々とめぐっていたことが知られ、地元の人々からは、「万里の長城」と呼ばれ親しまれていました。
 周辺は明治36年(1903)、津山高等女学校の敷地となり、この石垣上には昭和7年(1932)完成の而立館(同窓会館)が建っていました。(文:現地案内版より)(2018年4月29日撮影)

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津山・森藩・松平藩の代表的な豪商「錦屋」

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2018年3月30日の森本家とつやま自然のふしぎ館です。

 森本家は、錦屋を屋号とし、伏見町で呉服商を営む津山藩の御用商人だったそうです。先祖・森本儀太夫(永禄6年<1563>生まれ)は加藤清正の重臣で熊本城下に居住しており、その弟一族が津山藩主森忠政に召されてこの地に土着し商人となり、藩主森家・松平家に仕え、町年寄、札元などを勤め藩政の御用にあたってきた家で、9代目の藤吉さんは津山銀行頭取(明治12~42年)や町会議員を務め、町の発展に尽力されました。(呉服商の店は明治42年まで続けられていたそうです。)

 藤吉さんの子・慶三さんは、明治33年、両親に無断で内村鑑三に入門しようとするが、最初は断られ、のち、両親の許可を得た上で入門を許され、東京帝国大学農科大学に学び、内村鑑三が日曜日に自宅で開く聖書講義に毎週欠かさず出席し、その教えに共鳴し、明治34年にはキリスト教に入信。明治44、45年には内村鑑三を津山に招き、聖書講演会を開くなどキリスト教伝道に努めたそうです。

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2018年「弥生の里まつり」

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 2018年5月3日(木)~5月5日(土)・10:00-16:00くらや総本舗前駐車場・特設テントにて「鈴鹿屋・くらや恒例の弥生の里まつり」がありました。くらやさんでは、すっかりおなじみになったみたらし団子やたい焼きの実演販売、蒸したて柏餅や新登場の氷室餅とどら焼き摘み放題、鈴鹿屋さんでは陶器市や金物市など、津山みのり学園さんのクッキー、パン工房さんのパン、バンコクコーヒーさんなどなど盛りだくさんの企画でした。(2018年5月3日撮影)

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第3回牛魔王選手権が大盛況でした。

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 2018年5月3日・4日に「第3回牛魔王選手権」が「津山城つるまる広場」で開催されました。予報では津山地方の3日は雨とのことでしたが、曇りから晴れになり多くの人で賑わいました。会場では、出展者22店舗(投票対象外4店舗)が自慢の牛肉料理で味を競い合い、投票により優勝者を決定という流れでした。平成30年の第3回牛魔王は、「居酒屋上屋のネギまみれの焼きそずりポンズ」、「第2位は城下町肉処櫓の炙り牛タン寿司」、「第3位は新見食肉 千屋牛バーベキュー串」でした。
また、3日には​江戸時代の甲冑の着付け体験があり、子ども達にも大人気でしたよ。(2018年5月3日撮影)

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作楽神社と境内の碑

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 作楽神社案内(明治2年11月27日創建)御祭神 後醍醐天皇・児島高徳(旧社格県社)
由緒:元弘2年(1332)北条幕府のために隠岐に流される途中の後醍醐天皇がこの地にお宿りになり、児島備後三郎高徳が桜の幹を削って「天勾践を空しうする莫れ、時に范蠡無きにしも非ず」と記して天皇をお慰めした故事により、貞享5年(1688)津山藩森家の執政長尾勝明が顕彰碑を建て、のち、松平家の家臣道家大門らの努力によって神社が鎮祭された。境内地は約1万坪、鎌倉時代の守護職の館であった。大正11年、「院庄館跡、児島高徳伝説地」として国指定の史蹟となった。社宝の太刀(銘、来国行)は、国指定の重要文化財である。境内神社:護桜神社・水神祠(平成11年11月鎮座130年記念)(文:境内案内より)(2018年4月29日撮影)

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石山寺のぼたんの花

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 4月がも終わろうとしている30日に津山市大谷にある石山寺をお訪ねして来ました。石山寺には、ぼたんの花が沢山植えられて綺麗に咲いているとの情報があり行ってきました。少し道が細くなっていて車で対向する場所がほぼ無いので、歩いて散歩がてらに登られる方が多いのではと思います。登り道は、春には山桜がとても綺麗に咲き、山ツツジも沢山みられるところでもあります。また、秋には紅葉が美しい道で散歩におすすめです。(2018年4月30日撮影)

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小田中から見た4月の朝日

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 2018年4月4日の小田中から見た朝日です。お正月の頃と比べると随分出る所が違っています。(2014年の初日の出)早朝に散歩するといろんな景色に出会います。4月というのに随分暖かな気候となり、今年は桜の開花も随分早くなって満開を過ぎて散り始めてしまいました。

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大岡家屋敷跡・墓所(池ヶ原)

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大岡熊次郎  1842年5月20日~1920年6月1日(天保13年~大正9年)
 地方政治家、篤農家、郷土史家、勝南郡(現津山市)池ケ原村に生まれる。
 寛政の駕籠訴訟を行った岡伊八郎の孫。明治元年(1968年)徳川親藩のため窮地にたたされた津山藩は、津山城包囲軍の交渉に、岡熊次郎を外事部の肩書で派遣して、津山城は無事開城することになりました。明治21年(1888年)大岡と改姓。
 明治6年(1874年)血税一揆による犯罪者の発生防ぐ。明治7年 北条県会議員。
 明治9年 第八番会議所戸長。明治11年~12年 勝南郡書記として、窮民救済に尽力。
 明治15年 自由民権運動に参加。明治13年~25年連続3期、勝南郡選出の県会議員を務めた。また、養蚕事業や畜産事業や高取小学校や勝間田農林高校(現・勝間田高校)のも貢献。享年79才:大正9年(1920年)6月高取村村葬。(文:『大崎の歴史と文化出雲街道界隈編』より)

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バンブーミュージックフェスタ

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2018年4月22日に津山市戸脇の古民家「倭文の郷」で家族みんなで音食青緑「バンブーミュージックフェスタ」が開催されました。昔懐かしいエレキギターの音に誘われて竹林に入っていくと、タケノコがニョキニョキ生えているのにびっくり。後で、友人たちは案内してもらって、わらび採りに出掛けたそうです。(2014年9月14日(日)の取材は)こちら←

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【津山人】大谷是空(藤治郎)

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 大谷是空は(本名藤次郎)は、美作国西北條郡西苫田村大字山北の地に慶応3年(1867)10月27日、父為吉の次男として生まれた。和田克司著『正岡子規と大谷是空』によれば、子規が「筆まかせ」において、是空を親友と呼んだように、子規の青春時、是空はもっとも親しい子規の友人であり、心許した仲だったそうだ。
 明治17年(1884)に上京、進文学社に学び、次いで東京大学予備門に入学、在学中に第一高等中学校となり、5年経ったころ発病、22年に静養のため郷里に帰った。当時津山には小学校以上の公立学校はなかった。たまたま東京の青年協和会の手で学校を建てる募金のために有志が帰って来た。東京に美作人のための学校をつくろうとしたらしい。これに対して大谷是空は、東京のことは東京でせよ、われわれは郷里のためにやると決意、地元の有志やら、周辺の郡長によびかけ、普通学校が建った。これが動機となって、津山中学校が建つことになり、大谷は初期の教師となって、津中の教壇に立った。しかし明治30年には大阪に出て生命保険会社に就職、さらに東京汽船会社へ、それが合併して日清汽船となり、事務的才能を発揮した。 

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