森藩政下に移転 山上がりした真言宗の髙福寺
林田 清應山髙福寺のたたずまい 津山市街東部 野介代の丘陵山麓に清應山髙福寺が所在している。
津山東部では数少ない真言宗の寺院であり、津山市林田667に位置し、町内会は林田山根分に所属している。寺を象徴する大屋根の庫裡、客殿、大師堂や安永年間建立の本堂を始め、鐘楼堂、薬師堂、境内墓地、さらには裏山に四国八十八箇所巡りのミニ霊場を設けるなど、真言宗の必要な設備を全て備えた寺院らしい境内である。
林田 清應山髙福寺のたたずまい 津山市街東部 野介代の丘陵山麓に清應山髙福寺が所在している。
津山東部では数少ない真言宗の寺院であり、津山市林田667に位置し、町内会は林田山根分に所属している。寺を象徴する大屋根の庫裡、客殿、大師堂や安永年間建立の本堂を始め、鐘楼堂、薬師堂、境内墓地、さらには裏山に四国八十八箇所巡りのミニ霊場を設けるなど、真言宗の必要な設備を全て備えた寺院らしい境内である。
○荒神信仰の盛んな作州
民俗学者直江広治氏の研究によると、荒神信仰は全国的に盛んであるが、屋敷神・株内の同族神・部落神・産土神に関わる屋敷外の地荒神は、東は千葉県、西は宮崎県の範囲までであり、その中心は中国地方でとくに岡山県と島根県が最も盛んな地域とされています。岡山県下では、県南より北部の方が盛んであり、江戸時代に修験者の活躍が盛んであった作州こそ、まさに荒神信仰の本場ではないかと考えられます。
江戸時代、作州で一番多い宮は荒神様であったといわれています。当美作町では、どれほどあったのでしょうか。幸いにして江戸時代半ばの天明4年(1784年)岩見田の百姓赤堀氏の手になる「奉勧請国中惣神宮」の貴重な記録があります。それを整理してみると、荒神様は町行域の42大字(旧村)で合計して129という多きに達しているのであります。(文:作州民間信仰代表 荒神様とそのお祀り 宮澤靖彦) (2014年4月12日取材)
野介代のお薬師様 施主 勝田郡植月北村 早瀬兵作。御親戚にもなる菅野昭夫さん(野介代の塞ノ神社奉納)によれば、早瀬氏は出雲のお薬師様の熱心な信者でもあり、とても裕福であったそうで、作州一円に薬師堂を作るといい、職人さんを連れて建てている最中に亡くなったという事でした。ここのお薬師様は十九番目(取材2014年3月11日)
・お薬師堂とは薬師如来(やくしにょらい)という仏さまを祭ってある仏堂、または寺院の一般的な名前。
薬師如来は現世利益につながる仏として信仰されいて、大小あわせて、日本全国にたくさんの「薬師堂」がある。※現世利益(げんせりえき)=生きているうちに、いいことがあること。(野介代町内会からのおしらせより)
津山市玉琳 天下泰平 奉納 大乗妙典六十六部日本廻國 日月清明 文化十一申庚八月吉祥日 東新町 願主 みよ
日本全土66か国を回国し、国ごとに法華経一部ずつ納めることから、この名が起った。66所の霊場も、六十六部の流行にともなって成立したものである。(明治4年11月10日太政官から禁止の布令がでている)
津山市林田755(若宮谷)。祭神 大巳貴命(オオナムチノミコト)(大国主命)。少彦名命(スクナヒコノミコト)。森忠政が鶴山城の鬼門の守護のため、元和6年(1620)3月23日大隅に遷座した。村民は氏神を失ったので、跡地に小祠を建てて若宮神社と称した。元禄年間(1697~1703)松平藩の時に大隅神社の旧号をとなえるようになった。末社 御先社、三宝荒神社。(取材:2014.6.15)
因幡往来節分岐点近くに祀る今宮(津山市川崎字玉琳の稲葉街道沿いにあります。)
当地の神社は、その昔近江国滋賀郡坂本村の紀澄弥という法師がこの郷に来住して、日吉神社の御分霊を奉祀し、日吉神社として称して祀ったという。爾来、次第に住民が増加し、産土神として尊崇するようになった。神社の南方には今宮と云って紀澄弥を奉祀する社が祀られている。(岡山県神社誌より)
(文:美作の歴史を知る会 宮澤靖彦)(2014年6月23日取材)
川崎字玉琳にある相撲の墓・歌舞伎の墓があります。
現在の公会堂があるところが、地蔵堂と呼ばれている。東作誌に地蔵堂(小庵あり林田上ノ町大信寺持)。地蔵堂(御薮坐の内にあり)二か所ある。(2014年6月26日取材)
津山市玉琳 馬頭観音 明治三十三年二月一日 津山市中之町 櫻井廣次郎 建之
馬が怪我をして倒れた所とか、病気で死んだ所に馬の霊をこめて祀る。
津山市玉琳 (おたびどころ、おたびのみや、みこしやど)
神社の祭礼に神輿が本宮から渡御して仮にしばらくとどまる所。