勝田郡(勝央町・奈義町)(地域別/津山市周辺・岡山県北地域)

風神社(奈義町)

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風神社 (祭神 :龍田神社・・・天御柱命・国御柱命)
    (祭神 :八坂神社・・・素盞鳴尊)
由緒:横仙地方(奈義町・勝北町)は、昔から広戸風(台風時期)と呼ばれる局地的強風が、 毎年のように吹き荒れる。これを鎮めるため、この地に奈良県生駒郡の龍田大社(風の宮)及び、京都市東山の祇園神社から御分霊を勧請した。 神社創建の時期は定かでないが 19世紀の初め頃か、と思われる。
横仙一帯の敬者らにより、龍田様または祇園様とも呼ばれているが 1952年 [風神社] という名称で神社本庁に提出された。
1997年国道53号の道路拡張に伴い、全社地が買取され、その南50 メートルの現在地に、同年7月28日 神社の新築移転が完成した。(文:現地案内板より転記)(2025年7月13日撮影)

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レアンドロ・エルリッヒの作品《まっさかさまの自然》

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 岡山県北エリアで開催された「森の芸術祭 晴れの国・岡山」(2024年9月28日~11月24日開催)
奈義町の屋内ゲートボール場「すぱーく奈義」に展示されていたレアンドロ・エルリッヒの作品《まっさかさまの自然》が、特別に2025年1月10日~2月2日まで延長公開されているとのことで、1月13日に奈義町の屋内ゲートボール場「すぱーく奈義」へ出かけてきました。
 屋内に入るとすぐ森に囲まれた中に吊り橋が掛けられていて、下をのぞくと、空の上から森を見ているような不思議な感じがしました。実際は、天井から吊るされた木々が下の鏡に映りこみ、周りには本物の木々が植えられていました。

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元文一揆発頭人 義民藤九郎・与三右ヱ門之慰霊碑

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 元文4年(1739)、不作が続く美作国勝北郡(今の岡山県)の幕府領で百姓3千人が蜂起し、野非人の扮装で富家に押し掛け米や金銭を要求し、鎮圧後に北野村(今の勝田郡奈義町)藤九郎・与三右衛門が死罪となりました。
 平成15年(2003)、経済産業大臣の平沼赳夫の揮毫による「元文一揆発頭人義民藤九郎与三右ヱ門之慰霊碑」が奈義町内に建てられました。
(2024年6月14日撮影)

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美作最大級の横穴式石室-井上火の釜古墳-(鏡野)

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 広域農道を西に走り、真加部付近で右手に見える仙形山(せんぎょうせん)斜面を臨むと、大きな石で組まれた石室が開口しているのが見えます。これは「井上火の釜」(町指定文化財)という古墳の横穴式石室です。
 井上火の釜は、井上大塚古墳・まかべ13号墳ともよばれています。横穴式石室というのは、古墳の側面に入口が設けられた石室で、何度でも追葬が可能な仕組みになっており、古墳時代後期の六世紀に多く築造された古墳の埋葬施設です。
 井上火の釜の石室は、現存長11.02m、棺を納めた部屋(玄室)の規模は、長さ6.36m、最大幅2.11m、高さ1.75m、入口から玄室までの通路(羨道)(せんどう)は、長さ4.66m、最大幅1.68m、高さ1.3mを測ります。玄室は、奥壁から見て右側が広くなっている右片袖式(みぎかたそでしき)とよばれる横穴石室で、本来は石室に盛り土が覆っていたはずですが、耕作土として持ち去られたり、長い年月の間に風雨に流されたりして、石室の天井石も露呈し、外形は大きく損なわれています。しかし本来は円墳であったと推定されており、町内で最大規模の横穴式石室をもつ古墳です。この石室の規模は、美作最大級の横穴式石室をもつ川戸二号墳(美作市・石室全長12.35m)、万燈山古墳(津山市・同12.1m)、穴塚古墳(真庭市・同12m)に並ぶ規模になります。

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御代官 池田仙九郎・重田又兵衛様塚

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 幕府の出先である代官が苛歛誅求(かれんちゅうきゅう)を行なったり、凶作や飢饉に際して救助の手段をとらなかったりの場合が多くあった為か、代官とは冷酷無比と印象づけられている。しかし多くの役人の中には温情をもって政治にあたった者もまた多く、前に述べた早川八郎左衛門のように名代官と慕われているものもある。
 町内にも滝本及び宮内に代官塚が建てられている。文化12年に之を建てたと記されて、寛政末から文化の初めに勝北の地を支配していた代官を祀ったもので、善政を布いた代官の頌徳碑(しょうとくひ)と伝えられている。
 碑面に 御代官 池田仙九郎 重田又兵衛様塚と刻まれている。建碑の経緯はさだかでないが、役人と百姓の温かいつながりが感ぜられる。(文:『奈義町史』)(2024-年6月14日撮影)

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猫と恋する作家展(勝央)

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 2024年6月16~30日まで「猫に恋する作家展」が、勝央美術文学館内の町民ギャリーで開催されています。美術館内では、愛猫家4人(岡田直子、ヨシノドードー、真夜中のキャットボーイズ、chick tack Waltz)の皆さんが、身近なネコたちをモチーフにした作品がとても微笑ましく、愛らしく描かれており思わず笑顔になります。立体で造られた猫はふてぶてしくリアル、カップルでジュースを飲むイラストの猫、また、猫の動作をすごろくで表現した作品、シルクスクリーンでの猫、工夫を凝らした飾り付け等などほっこりした展覧会でした。(2024年6月20日撮影)

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定兼宅のしだれ桜(勝央町)

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 2024年4月1日に予てから定兼さんから「ご実家の大きな枝垂桜がもうすぐ咲きそう」だと、お話を伺い、勝央町の田中まで行ってまりました。
 国道429号の野田橋を過ぎると見えてきます。ここは嘗て取材したことのある自然の宝貝の化石がある「化石の川公園」のすぐ近くです。この桜の木の樹齢はわからないそうですが、背の高い桜の木で真下に立つと枝垂れてくる桜の花は圧巻です。

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天台宗 弘誓山 観音寺(勝央町)

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 比叡山延暦寺を本山とする当寺は、千百余年の歴史をもち、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)の御作、聖観世音菩薩を御本尊として安置していますところから、弘誓山 観音寺といいます。
《寺暦》
 平安時代の天安年間(857~859)、比叡山第三祖慈覚大師(じかくだいし)によって、間山に(高福寺の一院としての説がある)創建された。その後(年代不詳、間山では火災説がある)、田井観音免(地名)に移転したが、天文十三年(1544)大洪水に遭い、御本尊以外の宝物・古文書等を流失し、建物は廃頽した。このため草創以来七百有余年の盛衰については詳らかではないが、田園化した田井寺跡は現在「観音面」の地名で残っている。(文:天台宗 弘誓山 観音寺の案内から抜粋)(2023年11月29日撮影)

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2022つながる「出雲街道」を歩こう会(最終回)

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 2022年10月23日「出雲街道を歩こう会」に参加してきました。
今回の「つながる出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会は、特別企画 第6弾(最終回)として、福力神社附近より津山(津山市役所)までを、東から西へと主催者の「勝間田宿の会」と共催で、「城東まちづくりの会」と「勝山宿の会」で歩きます。
「勝山宿の会」では平成24年より、真庭市内の「出雲街道(7回)・大山みちを歩こう会(6回)」を踏破して、国交省より「夢街道ルネサンス」に認定され「つながる出雲街道」と命名され、東部(美作市・勝央町・津山市)に活動の場を求めて、歩こう会を開催し、記念すべき第6弾の最終回を迎える事が出来ました。
特別企画(第6弾)出雲街道(Ⅱ)を歩こう会(第4区)
福力(福力荒神社附近)~津山(市役所)間7.5km(実質8.0km)
主催:出雲街道 勝間田宿の会、共催:城東まちづくり協議会(津山市)、共催:出雲街道勝山宿の会
協力:津山観光ボランティアガイドの会、助成:(一社)中国建設弘済会

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東美作路名木百選「酒本家のムクノキ」と「髙仁姫宮の碑」(勝央町)

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 勝央町の文化財保護委員長の赤木耕三さんに案内していただいて、「東美作路名木百選 酒本家のムクノキ(ニレ科)」と「髙仁姫宮の碑」を巡って来ました。
 ムクノキの巨木はまるで髙仁姫宮の碑を囲んでいるように根を張っています。その髙仁姫宮の碑の裏には酒本同族会が建立した酒本家のルーツが書いてありました。また、近くには後南朝初代高福天皇の第一皇子尊秀親王のお墓と伝えられている地や、如意輪観音寺跡がありました。(2021年8月28日取材)

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