鉄砲町(地域別/津山市/津山地域)

鉄砲町

tepoo9.jpg

 江戸時代、森忠政公の時代の津山城下の一町で武家地でした。
 当時は鉄砲組の足軽を置いたことから西鉄砲町といわれました。後に東鉄砲町は中之町に編入されたため、鉄砲町となり現在に至っています。家臣が砲術修行の射撃をするのは、鉄砲町に南土手の東側で、藺田川と吉井川の合流付近に大砲場が有り、五町場とか鉄砲場と呼ばれていました。これは、吉井川を越えた南岸の大谷村石山の着弾点の距離が約5町(約540m)あったからと言われています。松平藩になってから、大砲場を更に西に寄った土手から、12町砲術修行の射撃がありました。町には、鉄砲製造の技術者すなわち鉄砲師がいて、修理から製造まで行っていました。鉄砲金具師や鉄砲台師もいました。松平藩時に召し抱えられた鉄砲師が作った火縄銃や馬上筒(短銃)の逸品が現存しています。また紙漉屋があり、備中の漉工を雇い、松平家の檀紙奉書を生産していました。

鉄砲町の続きを読む

鉄砲町のお大師様

amida8.jpg

 津山市鉄砲町に大師堂があり、軒先に阿弥陀如来・薬師如来の札が架かっている堂宇がある。
長年解らないまま月日が過ぎていましたが、2017年8月やっと鉄砲町の池田さんをお尋ねしてきました。「お大師様で、昔は隣の方々がお涼みなどしていましたが、今ではお涼みもお祀りもされていませんし、知った方々はいなくなってしまいました。一時、極楽山 光厳寺さんにお願いして一二度拝んでもらったこともありました。今は家の敷地内にあるので、私がお祀りしています。先代がいなくなって詳しい事はわかりません。」とのことでした。その後、光厳寺の住職をお尋ねして案内していただきました。(2015年5月9日撮影)

鉄砲町のお大師様の続きを読む

七五三稲荷大明神、繁守稲荷(鉄砲町)

inari5.jpg

 森藩の銃卒を置いたことから、鉄砲町とされる。古くは西鉄砲町といっていたが、林田町から中之町の土手筋の東鉄砲町が廃されてから西の字は消えた。

 鉄砲町の旧土手の遺構のとこ・西端の通り〉に七五三稲荷と繁守稲荷が鎮座している。このうち七五三稲荷大明神(おしめさま)は古い。元はもっと上の旧土手のところにあったが、査転の末、明治に現在の地に移された。繁守稲荷はその時、伏見稲荷を勧請して新しく建立。
「おしめさま」の御神体は盗難にあい、もとの成り立ちは不詳。(2015年5月9日取材)

七五三稲荷大明神、繁守稲荷(鉄砲町)の続きを読む
これより以前の記事