大崎神社(金井)
由緒・沿革
森家明神帳によれば、三條天皇の時代長和4年(1015年)11月に前年秋季より金井郷内に疫病が流行して死亡する者が多く、1年余り経っても尚止まらず、益々甚しく、これを美作守 源道方に訴えました。
道方は当時宮内卿と美作守も兼務しており、宮内史より崇神天皇5年天下に疫病流行して止まないので、翌年大和笠縫の里に大國魂神、大物主神を勧請して三輪明神と崇めたら、天下の疫病ことごとく治ったこの例を聞き、道方は同年の貢物稲百を以って長和5年5月当郷に大國魂神を勧請して西大崎明神と、大物主神を勧請して東大崎明神と崇めたら、疫病がたちまち鎮静しました。
以って、この明神に不敬ある族は必ず疫病に懸かり又は不幸に陥ると氏子大いに恐れ厚く尊崇しました。
東大崎、西大崎と神号を称したのは勝田郡第一の大山和気山と、高篠山乾良の2股に延びる全村がこの股間に在り、西の山脉の里金井に達して止るこの尾根先に勧請したのを西大崎と、東の山脉の里中原に達して止るこの尾根先に勧請したのを東大崎と神号したことが、東西大崎の神号が起る由縁なりと書かれています。
明治6年官命を以って金井神社と奉称し、明治15年更に大崎神社と改称しました。
(美作国神社資料及び水島宮司資料から)