山方(地域別/津山市/津山地域)

坂元井堰(津山市山方坂元地内)

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 築造年月は明確でないが、東一宮、東山方の地には条里制の遺蹟を示す凡そ6町四方の区画が整然とした坪割りの地形があった(中村、才田及び下河原)。『美作一宮郷土の歩み』
 これらのことから、8世紀頃にはすでに、農地に水をひく水路の原型ができていたと思われる。以降何度にもわたる改修を重ねてきた。特に藩政時代にはかなり大がかりな改修が行われ、この坂元井堰は上記中村地区の潅漑対策と併せ、山方の大谷川と合流させ、戦時対応を考えて、その水を本光寺前方の「土居の内」にまで取り込めるようにしている。 坂元井堰の潅漑面積は約47町7反の広範囲である。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年3月20日撮影)

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高塚大師堂(津山市山方字高塚地区)

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 空海の像を安置(建物の中に石仏2体あり)。苫津霊場18番札所。現在も巡礼されている。
高峪組と神田組が合同で毎年7月上旬頃、お籠もりと称してお供えをして焼香し、堂の前の広場で酒宴を開いている。(お堂内は葬蓮道具の保管場所にも利用されていた)(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年4月18日撮影)

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勝負山(津山市山方字木梨地内)

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 山頂に径12m、高さ0.5m程の古墳状の高まりが認められる。その上に勝負山の碑(土台石があるが、碑の棹が見当らない)がある。墳丘の西側には周溝を持つようである。
 永禄9年(1567)尼子氏滅亡の後、利元城主福田盛昌、毛利(小早川隆景)に属し、その子勝昌、桝形城をあずかりし天正7年4月、宇喜多直家は、その将・荒神山城主花房職秀をして之を攻む。利元城主福田盛昌は援兵を送らんとするも、職秀の兵これを山方勝負山に打たんとし、激戦の後、福田勢敗る。以後勝負山と称するはこの故なり。なお、敗れた福田氏は勝部に土着したと言われている。『苫田郡誌、久米郡誌』(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年3月20日・4月8日撮影)

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坂元稲荷神社 (津山市山方字古観音寺地内)

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 いつの頃からかは判然としないが、五穀の神として倉稲魂神を祀ったもので、また商売の神(正一位)として神の使役に狐を従えている。
 毎年2月初午の日に参詣する稲荷詣でがあり、絵馬を献ずるなど子ども連れで毎戸に銭を乞い歩く萬年講などがあったと聞く。現在ではこれらの行事もなくなったが地域や横野方面からの信者など、お参りが絶えることなく続いている。
 なお、平成7年県道拡幅工事のため現在地に移動されたものである。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年3月20日・4月12日撮影)

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地神様(才ノ神) (津山市山方字才の元地内)

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 村境に祀られた往還の人々の疫病災難をお守りする「厄除けの神」である。地神様と樹齢百余年の「エノキ」(高さ3m、径30cm)があり、明治28年の文字が読みとれる。
 その後昭和58年道路拡張工事により、御神木の「エノキ」と共にこの地へ移設されたもので「幸ノ神」とも言われ、古くから子どもの宮参りやお籠もりなど参詣者多数あったと伝えられる。
 なお、平成5年度「津山ふるさと景観賞」受賞に輝き田園風景の中にも歴史を感じさせる名所になっている。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年3月20日撮影)

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