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神実山 慈恩寺(大字桑下)旧久米町

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 当慈恩寺の所在する桑下村は延享4(1747)年、相州小田原藩大久保氏の領有となり、文化10(1813)年までその領有が続くのであるが、その間大久保氏の祈願所となり、大久保氏歴代の位牌が今もまつられている。
 又、某家保存の「美作庄久米北条郡」神実山慈恩寺由緒 の抜き書き によると、此の寺には 石頭山親道寺の前身があり、僧親道が住職として不動明王をまつっていた。此の石頭山親道寺を貞観2(860)年に慈覚大師が神實山慈恩寺として開基したものと解釈出来る一節がある。それから、天正4(1576)年江原兵庫助、同又四郎が本堂を再建した事情について次の様に書かれている。

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2015年 布滝の紅葉

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2015年10月31日(土)の阿波は小雨が降っていて景色は霞んでしましたが、それでも時には青空が垣間見られ、布滝も無事見ることが出来ました。紅葉はやや遅かりしですでに散った所もありました。

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2015年 (二宮)高野神社の秋祭り

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 高野神社の秋祭りが2015年10月25日(日)執り行われました。午前中は神事が執り行われ、神社境内で巫女舞い、獅子舞などの踊りがありました。その後、宇那提の森(ムクノキ)まで神輿ご巡幸があり、神楽や獅子舞が奉納されました。また、午前11時から各町内から11臺の山車・飾り山車がウエストランドに集合し、美作大学沖縄県人会によるエイサーの踊り、作州銭太鼓の演舞等のイベントが開催された後、各だんじりはお旅所に集合し、傘鉾の御神幸が厳かに執り行われました。(2009年の秋祭りの様子はこちらから

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2015年 徳守神社の秋祭り

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 2015年10月25日(日)徳守神社の本祭りが真っ青な秋晴れの空の下で執り行われました。
徳守神社の祭礼は美作津山藩初代藩主森忠政が慶長9年(1604年)に同宮を再建して間もなく始まったとされている、400年の歴史を持つ祭りです。
 だんじりが集合した奴通りでは、津山鶴丸太鼓や田町こども奴行列の踊りを始め、津山情緒のおどりなどが披露されました。また、御神輿が到着し、獅子舞や巫女舞等が奉納されお祭は最高潮になりました。今年はお花善神社の御神輿が子供神輿として、氏子の子供たちによって担がれました。

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民芸社で津山牛の制作工程を見学!

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2015年9月4日(金)に画家の桜井由子さん津山民芸社の白石さんをお尋ねしてきました。今回は「民芸品が出来る様子を見てみたい。」と桜井由子さんのたっての希望で実現しました。同じ伝統文化をこよなく愛する芸術家同志。理解されにくい芸術文化の話や、後継者がいない等の話をしながら、何とかならぬものかとお話ししていらっしゃいました。

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まほらでいもほり体験会がありました。

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2015年11月3日(祝)まほらファームの10周年イベントがあり行ってました。
 いもほり体験会では、いろんな色のさつま芋をみーんなで掘って、好きな種類を一袋に詰め合わせてお持ち帰りや、こんにゃく芋を湯がして、ねりねり、こんにゃく作り。また、つるし柿作りなどなど沢山の体験ができるコーナーもあり、家族で楽しんでおられました。

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22世紀の森(加茂)

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 我々加茂町民は、自然より与わった大いなる恵みを受け継いでいく意志を、天地に示すため、ここに「二十二世紀の森」を設置することを決定しました。大木の生い茂る美林を、二十二世紀に向けて保護、育成していくことは豊かな森林資源に育まれてきた我々町民の果たすべき使命であると考えます。その姿勢を世界に示すため、ここ高鯨の直営林二〇ヘクタールを、「二十二世紀の森」と定め、西暦二、一〇一年まで保存することにしたのです。これは森林の重要性が様々な面から認識され出している近年の動きを先取りするパイオニアプランとなるでしょう。
 自然との調和なくして、人類の未来はなく、地球滅亡を招くのみです。我々は時代の先駆者として、地球的視野に先立ち、自然保護の理念を、ここに高らかに掲げます。 平成二年五月(文:石碑より)

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風月軒

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 衆楽園は、江戸時代初期に津山藩主・森家によって築造された回遊式の庭園です。元禄11年(1698)に松平家が 藩主となって以後幕末までは、家臣や他藩・他家からの使者を謁見するための「御対面所」、または藩主の隠居所の庭園として使われ、明治3年(1870)に 「衆楽園」として命名されました。
 衆楽園は津山城の北側(津山市山北)に位置しており、庭園は南北に長い敷地で、大半を池が占めています。別邸跡の古い建物群は現存せず、それらを再現した建物(余芳閣・迎賓館・風月軒ほか)が建っています。

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ロバート キャンベルさんを招き「曲水の宴」を再現。

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曲水の宴《動画1》《竹内津山観光協会長挨拶》《キャンベルさんのお話》《動画2
 流觴曲水ともいう。「觴」とは盃のこと。陰暦の3月上巳の日や3月3日に開催され、緩やかに蛇行しながら流れる水の岸辺に座して、流れ来る盃が自分の前に到達するまでに詩歌を詠ずるという風流な行事で、古代中国にその発祥があるという。水辺で行われていた禊ぎに関連する行事から、遊興の催事へと変化したといわれる。
 中国の事例では「衆楽雅藻」の序文でも「永和之蘭亭」と称されている如く、永和9年(353)3月3日に開催された曲水宴が、後に王羲之の書作品「蘭亭序」により広く知られることになった。
 日本にも古くから伝わっていたらしく『日本書紀』や『万葉集』にも曲水の宴を行ったことが記載されている。
 明治3年(1870)に衆楽園で行われた曲水の宴では、詩を成した者は盃を取り、できなければ飲めないという定めであったが、流水には盃だけではなく、こなもちや酒の肴も流されており、鴎の群れが波に揺れる様であり、また落ち葉が流れ下っていく様であったと描写されている。(文:公益社団法人津山市観光協会チラシより抜粋)

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