2015年7月のイナバ化粧品店
2015年7月20日のイナバ化粧品店内です。この日は連休最後の日ですが店内では遠く九州からのお客様がおられましたよ。遠方からのお客様を労いながら、九州の話で盛り上がるイナバママでした。外に出てふとみたイナバ化粧品店の駐車場傍に咲いているひまわりの様なお花が印象的でした。全国の皆様、これから暑い日が続きますが、どうぞお体大切にご活躍くださいねぇ~。
2015年7月20日のイナバ化粧品店内です。この日は連休最後の日ですが店内では遠く九州からのお客様がおられましたよ。遠方からのお客様を労いながら、九州の話で盛り上がるイナバママでした。外に出てふとみたイナバ化粧品店の駐車場傍に咲いているひまわりの様なお花が印象的でした。全国の皆様、これから暑い日が続きますが、どうぞお体大切にご活躍くださいねぇ~。
寺院の縁起と開山
真言の教は、古く平安期の昔より美作の各地域に布教され、多くの人たちに心のよりどころとして信仰されていた。
伝によると元弘の頃(1331)、大井庄坪井の地には真言の教が浸透し、衆徒法悦、そして寺門隆盛となり、寺城の地に寺坊十二ヶ寺も存在していたと言われている。
その隆盛の姿は現在総門の跡と考えられる仁王堂、梅ヶ坪御堂、また寺向、寺奥等の地名が残り往時の寺院仏閣の壮大さが偲ばれるのである。
中世における度々の戦乱により、寺院仏閣は兵火を被り衰退したが、真言の教は人々の深い信仰により絶えることなく続いていた。
安岡の裏には清らかな吉井川の流れ、大きな淵(現在のテトラポット付近)があり、鯉・鮒をはじめ数十種類の魚が生息している。
文化・文政の頃からこの場所では夏になると水練場として多くの子どもから大人まで賑やかに泳いでいました。特に戦後は水泳が盛んになり、夏休みになると西小学区の子どもたち(男は赤フンドシ)が真っ黒く日焼けし、水しぶきをあげたものです。また、この地では神伝流の泳法が盛んで、昭和の三十年頃までは多くの子どもたちはその泳法を習い水泳のできない子どもは皆無の地域でした。
本寺は九品山来迎寺となっているけれ共、現在は京都の知恩院の直末である。
元、此の寺は此の地の大庄屋福本小左衛門が自分の所有地のうち、現在称念寺のある位置に独力で小庵を建立した。時は慶長7(1602)年で、坪称庵と称した。其の後荒廃し寛永3(1626)年、福本小左衛門は独力でこの坪称庵を再建した。それから少時たった寛永9(1633)年10月22日、石州浜田生まれの道誉雲西という道心者が此の坪称庵に入って住職的な役割りをすることとなった。道誉雲西は正式な僧侶ではなく、俗人であり乍ら仏道修行に熱中した人であるが、これをもって開山と見ることもできる。
その昔、宇那提ヶ森の近くに大きな深い淵があり、大蛇が潜んでいて、人々に災いを及ぼしていました。ある時その大蛇を退治した折、祀るための寺を建て随雲山龍澤寺と号したと伝えられています。
嘉永十一年(1634)に阿弥陀如来を本尊として堂が建立されて以来、栄枯盛衰を繰り返しつつ、現在に至っています。現在の建物は、昭和四十五年に再建されたものです。本堂は平成二十七年(2015)に再建されたものです。
恒例の宮川朝市にやってきました。皆さん7時オープン(4月から9月・・・午前7時 から 午前10時 まで
10月から翌年3月・・・午前8時 から 午前11時 まで)というと、朝が早いと思いがちですが、ここは6時頃から人々がお散歩がてらにやってきています。私も着いたのが6時30分だったのですが、待ちきれない人々が大勢来られていました。一時期よりはお店は減っていますが、その分ひとつひとつがゆっくり見えて品定めが出来ました。(2015年7月12日取材)
作州民芸館にて 和傘デザイン展があり、和傘デザインコンテストの受賞作品や、ミニ和傘が展示してありました。津山市小田中出身の和傘職人小林旅人さんが、実施したデザインコンテストの作品を展示しておられるそうです。沢山の和傘の作品を懐かしく拝見しました。(2015年6月21日取材)
毎年7月30日午後7時頃より堂内で大般若転読法要、境内にて紫灯大護摩の祈願法要が行われる和霊大明神は厄除けの神として、また願い事は必ずかなえてくれると言う津山地方で名高い神様で、祭神は伊予の宇和島藩の家老で仙台藩主伊達正宗の子秀宗に仕えた人で、山家清兵衛公頼公(やんべせいべいきみよりこう)である。
2015年7月7日は森忠政公の命日なので本源寺では法要が行われました。朝から小雨が降っていて遠くがかすんでいますが、とても今の季節にマッチして綺麗なのではと衆楽園に足を運んでみました。案の定、池には鷺が石の上で羽を休ませていていい感じです。雨の衆楽園もおつなものです。(2008年の衆楽園の記事はこちら)
森藩の銃卒を置いたことから、鉄砲町とされる。古くは西鉄砲町といっていたが、林田町から中之町の土手筋の東鉄砲町が廃されてから西の字は消えた。
鉄砲町の旧土手の遺構のとこ・西端の通り〉に七五三稲荷と繁守稲荷が鎮座している。このうち七五三稲荷大明神(おしめさま)は古い。元はもっと上の旧土手のところにあったが、査転の末、明治に現在の地に移された。繁守稲荷はその時、伏見稲荷を勧請して新しく建立。
「おしめさま」の御神体は盗難にあい、もとの成り立ちは不詳。(2015年5月9日取材)