明治天皇の侍医頭 岡玄卿

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 明治天皇の崩御に立ち会った医師・岡玄卿が、津山ゆかりの人物だということをご存知でしょうか。
 岡玄卿は、墓誌によると1852(嘉永5)年に津山藩の大坂蔵屋敷で生れたとされます。大学東校で医学を専攻し、1876(明治9)年に東京医学校(翌年東京大学医学部に改称)を第一期生として首席で卒業。同大の助教を経て、助教授となりました。
 1883(明治16)年に宮内省から侍医を拝命し、ドイツ留学後に侍医局長を経て侍医頭となり、1912(明治45)年の天皇崩御に立ち会ったのでした。

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医学の道へ
 岡玄卿の出身地については、文献によって様々な説があげられていますが、岡家に伝わる玄卿の履歴書や墓誌によると、生国は「岡山県美作国津山」で、1852(嘉永5)年7月18日に津山藩の大坂蔵屋敷で生まれたとあります。
 父清二郎を早くに亡くした玄卿は、親戚の岡芳蔵に引き取られました。実母は郷里へ戻って再婚しており、のちに玄卿は母を訪ねて岡山県まで来ています。
 明治初年頃に東京へ転居し、大学東校(明治7年に東京医学校に改称)へ進学。ドイツ人医師のミュレルやホフマンのもとで医学を学びました。卒業後は同校の医院から助教を経て、助教授となりました。

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侍医を拝命
 1884(明治17)年、玄卿は宮内省から侍医を拝命しました。東大医学部の卒業生として、最初の侍医であったといいます。
  さらなる研鑽を志して、1889(明治22)年には在官のままドイツのウィーン大学へ私費留学します。2年後に帰国すると職務に復帰し、広島大本営で行われた陸軍大演習をはじめ、各地への天皇行幸にも随行。やがて侍医局長の不在中には、局長心得(代理)を命じられるまでになります。
 そして1898(明治31)年に47歳で侍医局長を拝命しました。翌年には東京帝国大学から医学博士の学位を受け、1907(明治40)年には男爵に叙せられました。

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明治の終わり
 1908(明治41)年、宮内省官制の改革により、玄卿は侍医頭となりました。
 その4年後の1912(明治45)年7月初め頃から、明治天皇は御不例(病気)となります。玄卿は、東京帝国大学医学部教授の青山胤道、三浦謹之助とともに献身的に治療にあたりました。
 7月30日午前0時43分、明治天皇崩御。その場には玄卿と青山胤道、三浦謹之助が立ち会い、崩御の報は早朝には宮内省から玄卿たちの連名を添えて発表されました。

 皇太子嘉仁親王が践祚し、時代は明治から大正へ。玄卿は侍医頭を辞して、宮内顧問官兼侍医寮御用掛となりました。

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晩年の日々
 侍医頭を辞任したのち、玄卿は、住まいも飯田町から牛込区原町へ移しました。
 1915(大正4)年には勲一等瑞宝章を授与されますが、その10年後の1925(大正14)年3月25日に、74歳でその生涯を終えたのでした。
 東京麻布教会堂で行われた玄卿の葬儀には、両陛下をはじめとする皇室からの供物・供花が手向けられました。また、皇室から玄卿に下賜された御紋入りの拝領品も、数多く伝来しています。侍医としての長年の務めの中で、玄卿が築いてきた信頼の厚さを物語っているようです。

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右の本は玄卿が翻訳したドイツ内科学書「診断捷径」

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明治天皇の崩御を伝える東京朝日新聞  1912(明治45)年7月28~30日
 7月10日に東京帝国大学卒業式へ行幸してしばらくのち、明治天皇は体調を崩されました。20日には宮内省から病状が公表され、新聞でも報じられました。30日の新聞には「洵ニ恐懼ノ至リニ堪へス」と崩御が報じられています。

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文:津山洋学資料館説明より抜粋(2015年7月10日取材)