他県(地域別/津山市周辺・岡山県北地域)

四国八十八ケ所霊場巡拝<第10番~第15番>

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 2025年11月6日・7日 津山市河面にある墨池山 清龍寺さんの四国八十八ヶ所霊場巡拝に参加させていただきました。今回は第1番 霊山寺~第15番 国分寺までの15ヶ寺を(一泊二日)で巡ってきました。清龍寺さんを朝6:30に出発して四国八十八ケ所霊場巡拝の旅へ。
途中で出会ったお遍路さんの中で、歩きお遍路さんは海外の方が多かったのが印象的でした。
 2日目の順路は、 第10番 切幡寺 ⇒ 第11番 藤井寺⇒ 第12番 焼山寺 ⇒ 神山(昼食) ⇒ 第13番 大日寺 ⇒ 第14番 常楽寺 ⇒ 第15番 国分寺でした。

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四国八十八ケ所霊場巡拝<第1番~第9番>

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 2025年11月6日・7日 津山市河面にある墨池山 清龍寺さんの四国八十八ヶ所霊場巡拝に参加させていただきました。今回は第1番 霊山寺~第15番 国分寺までの15ヶ寺を(一泊二日)で巡ってきました。清龍寺さんを朝6:30に出発して四国八十八ケ所霊場巡拝の旅へ。
2日間、朝夕は肌寒い日となりましたが、日中は穏やかで温かくお遍路には最高の日となりました。
山々の紅葉もぼつぼつ始まっておりました。
 1日目の順路は、 第1番 霊山寺 ⇒ 第2番 極楽寺⇒ 第3番 金泉寺 ⇒ 板野(昼食) ⇒ 第4番 大日寺 ⇒ 第5番 地蔵寺 ⇒ 第6番 安楽寺 ⇒ 第7番 十楽寺 ⇒ 第8番 熊谷寺 ⇒ 第9番 法輪寺 ⇒お宿でした。

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北山円応禅寺跡 観音堂(作用町)

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円応寺由緒
 鎌倉後期から播磨に進出していた聖一派の大朴玄素を開山として、暦応2年(1339)赤松円心が創建したもので、室町幕府の官寺制度のもとで十刹につぐ諸山に位置づけられた。
 住持の推挙は春日部流がおこなっており、外護は円心から貞範に受け継がれたらしい。
 一時退転した後に近世に再興され堂が現存するとともに、大伽藍をしのばせる礎石、佐用範家の墓と伝承される南北朝期の宝筺印塔が残る。
(文:兵庫県立歴史博物館HPより転載)(2025年7月26日撮影)

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世界一美しいと言われる「下瀬美術館」(広島県)

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 2025年8月26日、親しい人たちと世界一美しいといわれる「下瀬美術館」に行ってきました。美術館内はゆったりしていて、見て回るにも段差はなく年配者にも歩きやすかったです。いたるところが鏡なので自分で自分が撮れるので楽しめました。また、世界一美しいゴキブリにもお目にかかりました。東山魁夷、国吉康雄、小磯良平、北大路魯山人、藤田嗣治、マルク・シャガール、ジョアン・ミロ、アンリ・マティス、エミール・ガレなどの素晴らしい作品は撮影可ですが、SNSなどへのアップはできません。残念だったのは、ヴィラ(宿泊施設)は満室で宿泊することができなかったことです。


 広島県大竹市にある「下瀬美術館」は、2024年にユネスコが創設したベルサイユ賞の「美術館・博物館部門」で最優秀賞を受賞し、「世界一美しい美術館」と称されています。
 世界的な建築家 坂茂氏が設計したこの美術館は、「アートの中でアートを観る。」というコンセプトのもと、瀬戸内海の景観と調和し、水盤に浮かぶ色とりどりの「可動展示室」が象徴的な存在です。
(文:下瀬美術館HPより転載)

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史跡「後醍醐天皇の休石」(新見市)

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 2025年5月18日「出雲街道を歩こう会」に参加したついでに、鳥取と岡山の県境・明智峠を越えて新見市花見山にある史跡「後醍醐天皇の休石」に立ち寄りました。現地は、岡山より鳥取西部へと戻る途上、県境に近い新見市千屋の国道180号沿いに看板がみえます。
 伯耆に向かう途中の当地で大きな石を見つけ休まれ、遠くの明地峠(明智峠とも。岡山県新見市と鳥取県日野町の県境にある)を見られて「夜は明智 月は入野に 身は成地 いつも花見る 休石かな」と詠まれたという。


史蹟「休石(やすみいし)」の伝記
 人皇第九十六代後醍醐天皇は、鎌倉幕府倒幕のため笠置で幕府軍と衝突したが敗北し執権、北条高時に捕えられ、元弘2年(1332年)3月7日、京都六波羅をご進発、響く何の旅路を重ねられ、美作の国より備中路に入られ、旧阿哲郡大佐町大井野を通過、市倉峠を越え、入野(現在の井原)に至り、落合より当地花見へご到着されこの大井氏に御輿を駐(やす)め、しばしご休息遊ばされました。
天皇は更に北上、明智峠を越され、伯耆路に入られ4月1日隠岐島へ流配されました。
よってこの地を休石と呼ぶようになり、爾来天皇を偲び毎年旧暦9月15日、後醍醐神社の祭として執行し今日に及んでいる。(文:現地由来書き看板転載)(2025年5月18日撮影)

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山陰の小京都 ー 石州 津和野を訪ねて

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 2025年6月1日「第42回 津山洋学資料館友の会研修旅行」に参加させていただき、三津同盟ゆかりの地 石州津和野を訪ねてきました。津山市からは片道約4時間の旅でした。
 山陰の小京都と言われる津和野と言えば、まず思い出される景色は、古い屋敷の並ぶ街並みと、水路を泳ぐ鯉でしたが、今回実際歩いてみると、鯉が泳ぐ「殿町通り」、商家や酒蔵などが立ち並ぶ「本町通り」等など現代に続く歴史や文化を知ることができたことです。古い街並みを残し育てあげた津和野の人々の思いを感じながらいい町だなぁ~と。また、国際アンデルセン賞を受賞した安野光雅さんの絵本や風景画が大好きで「安野光雅美術館」は是非とも行きたかった所の一つだったので私にとって嬉しい研修でした。

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四国八十八ケ所霊場巡拝<第85番~第88番>

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 2024年11月7日・8日 津山市河面にある墨池山 清龍寺さんの四国八十八ヶ所霊場巡拝に参加させていただきました。今回は第80番 国分寺~第88番 大窪寺までの9ヶ寺を(一泊二日)で巡ってきました。清龍寺さんを朝8:00に出発して四国八十八ケ所霊場巡拝の旅へ。
 2日目の順路は、 第85番 八栗寺 ⇒ 第86番 志度寺 ⇒ 津田の松原(昼食) ⇒ 第87番 長尾寺 ⇒ 第88番 大窪寺 ⇒ 附中湖PA ⇒ 高梁SA ⇒ 津山でした。

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四国八十八ケ所霊場巡拝<第80番~第84番>

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 2024年11月7日・8日 津山市河面にある墨池山 清龍寺さんの四国八十八ヶ所霊場巡拝に参加させていただきました。今回は第80番 国分寺~第88番 大窪寺までの9ヶ寺を(一泊二日)で巡ってきました。清龍寺さんを朝8:00に出発して四国八十八ケ所霊場巡拝の旅へ。
 順路は、1日目は、第80番 国分寺 ⇒ 第81番 白峯寺 ⇒五色台(昼食)⇒第82番 根香寺 ⇒ 第83番 一宮寺 ⇒第84番 八島寺 ⇒ 庵治温泉(泊) 第85番 八栗寺 ⇒ 第86番 志度寺 ⇒ 津田の松原(昼食) ⇒ 第87番 長尾寺 ⇒ 第88番 大窪寺 ⇒ 附中湖PA ⇒ 高梁SA ⇒ 津山でした。

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森家と三日月藩(佐用町)

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 森家はもともと清和天皇からの流れを汲む氏族といわれ、相模国森郷を領したのち森氏を名乗ったと伝えられています。森家が歴史上に現れるようになるのは16世紀、森可成のころからで、可成はのちに織田信長に仕え美濃国金山を領することになります。
 また森家は著名な人物も多く輩出しており、この中でも先の森可成のほか森長可や森長定(蘭丸)などは特に有名な歴史上の人物としてよく知られています。
 三日月藩森家にはこのような氏族の後裔(こうえい)として森忠政が開いた津山藩森家(現岡山県津山市)を本家とし、その分流として成立します。慶安二(1649)年、後の三日月藩租である森長俊は二代津山藩主森長継の子として生まれ、延宝四(1676)年には藩主森長武に領内の一万五千石を分け与えられ津山新田藩を開きます。
 しかし元禄十(1697)年、本家である津山藩森家が改易となったときに森長俊は播磨三日月の地に移され、ここに三日月藩が始まることになります。
 三日月藩の領地は現在の三日月町、佐用町、上月町、南光町、新宮町、山崎町の一部にまたがり、佐用群内では四十の村、新宮では七の村、穴粟郡では十八の村の計六十五村を数え、石高は津山の頃と同じ一万五千石でした。
 後の三代俊春、四代俊韶のころには、今の岡山県と兵庫県内に四万石ちかくを預かり五万四千四百三十石を有したこともあったようです。
 さて、この長俊の後三日月藩の藩主は二代長記、三代俊春、四代俊韶、五代快温、六代長義、七代長篤、八代長国、九代俊滋と続くことになります。
 藩主の説話もいくつか残っており、初代長俊は長身で鼻筋が高く眼光の鋭い人であったといわれ、いまでも菩提寺(ぼだいじ)である高蔵寺(こうぞうじ)にはその面影を伝える木造が残されています。二代長記は氏神の日岡八幡宮(ひおかはちまんぐう)、菩提寺の高蔵寺の増築を行っています。三代俊春は学問を好み、四代俊韶も能書であったと伝えられ、また五代の快温も学問を好み私金でを投じて藩校廣業館(こうぎょうかん)を設立し、学問・武芸に力を入れたとされます。
 この後三日月藩は九代の俊滋のときには明治維新(めいじいしん)を迎え、さらに明治四年の廃藩置県(はいはんちけん)で藩知事(はんちじ)を免ぜられたことをもって三日月藩九代174年の治世は終わりを告げることとなりました。(文:兵庫県佐用郡三日月町発行『森家一万五千石の陣屋 三日月藩乃井野陣屋跡』より転載)(撮影2023年5月18日・20日)(佐用町許可済み)

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