棚田暁山筆「伊能忠敬」 津山にやってきた伊能忠敬

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棚田暁山筆「伊能忠敬」㊤ー津山にやってきた伊能忠敬ー
 明治11年、西北条郡津山町元魚町(現津山市元魚町)に生まれた歴史画家・棚田暁山(たなだ ぎょうざん)は本名を梅吉といった。元魚町にあったという生家の場所や何を営んでいたこということは不明。少年期より古画や有職故実への関心が高く、上京して模写修復の技能を学んだ。
 この過程にあって当時歴史画の大家であった小堀鞍音の知遇を得て明治33年に入門。以後主に土佐派の大和絵の画風を学びつつ、鞍音の助手として古美術品の収集などにあたった。同門には安田靫彦らがいたが研鑚を重ねて各種の共進会などに出品、入選や褒章(ほうしょう)を受けた。
 昭和14年には号を暁山から真楯に改めた。戦時中、津山に疎開していて作品を残したがそれらには、この真楯という号がかかれている。師ゆずりの綿密な歴史考証にもとづいて緻密で迫真に富んだ歴史画を書いているが、先般、笠岡の竹喬美術館で開かれた「岡山の近代日本画展」には代表作の一つ「伊能忠敬」が出品されていた。(文: 竹内佑宜)(写真:岡山県立津山高等学校蔵)

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 この絵は昭和5年にかかれたというから暁山50歳、壮年時の作。津山高校に所蔵されている名作だ。描かれた忠敬の静かな表情は、彼が地図製作に疲れて一時の休息をとっているようにも見えるし、次なる調査の旅への思いを深めているようにも見える。忠敬の居宅があった千葉県佐原市が所蔵する「忠敬像」より20歳近く若い時の忠敬を描いているようだ。絹本着色で85㎝×71.5㎝の大作。もとから額装に仕上げられたもの。「暁山」と読みとれる印はあるが、いわゆる落かんはない。

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机について着席している忠敬の背後には中象伝限儀(ちゅうしょうげんぎ)という星を測る機械が描かれている。
これは緯度を求める機械。南北に結ぶ子午線に沿って、配置し、望遠鏡内の十字線の縦線を恒星が通過するときの四半円の目盛りを読んで高度などを測るものだ。使用方法を聞いただけでも難しいが、現実に操作して測量するには一層の困難がともなったであろう。
 同図にはまた垂揺球儀らしいものも描かれている。これは和時計よりも精度がよい振子時計のこと。基本的に忠敬は歩測や量程車、あるいは杖先方位盤という長さ1m弱の杖の先に羅針盤を取りつけたものを使って日本列島をくまなく測ってまわった。その伊能忠敬の大測量の旅について資料は各地に多く残っている。当然伊能隊の日記もあり、迎える側からみた資料もある。現在版の著書では『伊能測量隊まかる通る』や井上ひさし著『四千万歩の男』が面白い。

棚田暁山筆「伊能忠敬」㊦ー津山にやってきた伊能忠敬ー
 伊能忠敬が日本全国、北は蝦夷地から南は五島列島まで約3万4千9百㌔を測って回った歳月は17年。今と違って非常に厳しい状況にありながら、自らの足で約地球一周分にあたるその距離を歩いたのも驚嘆に値するが、それを思い立ったのが何と50歳をすぎてからと聞けばなおさら。
体調不良のため、第九次、第十次の調査には加わらなかったがそれまでの15年間、文字どおり先頭を切っての苦難の旅はまさに想像を絶する困難を伴っていたであろう。しかし、一次を終え二次に入るころから幕府による後援も徐々に加わってきた。それゆえにこそこの業績がまっとう出来たともいえる。

 さて主題の伊能忠敬津山入りだが、時は文化10年(1813)12月3日のこと。第八次測量隊が九州北部未測量地域や屋久島、種子島、壱岐、対馬、五島列島を測り、帰路中国地方と中部地方の内陸部測量のために入った時のことである。この第八次は前々年の文化8年11月に江戸を出発して文化11年5月に帰国した長旅である。一行は約18名。街道筋の宿場や村々で人足や馬などを調達しながらの旅で伊能隊最長の測量旅行となった。
 津山には二班に分かれて入り、一隊は勝山から3日。伊能忠敬がいる本隊10名は鳥取より発していて翌4日、野村から測量しつつ津山へ入った。5日早朝から安岡町関貫より測量ははじまり、西今町橋(現翁橋)まで。
藺田町通広瀬橋詰まで。宮脇町より元魚町北方高石垣関貫まで。それより南之方吹屋町見付まで。また引き返し元魚町馬形町まで。二階町堺町と測って昼になった。昼から京町よりはじめて東新町関貫で終了。その他支線が測られ、後醍醐天皇行在所(現作楽神社)にも訪れたという記録がある。6日には、津山を出発した一行は大戸や周匝、町苅田を経て岡山へは11日。
 もう一方は弓削、神目、金川、中牧を経て岡山へ。そののち吉井川を逆のぼり押渕を経て津山に帰り16日泊。17日には勝間出へ出て泊まった。のち作用、三日月を経て28日には姫路到着。一行の津山での宿舎は大年寄玉置家。

 津山藩が出した伊能隊に対する接遇通達はまこと微に入り細に入っている。例えば▽宿舎での用達ならびに町なかを通行する際は道案内掛として2名がつき、羽織袴を着用すること▽到着の当日、大年寄一人、町年寄一人が麻上下着用でご機嫌伺いに出ること▽食事は到着のときは一汁五菜、逗留中は一汁二菜とするなど。なお通行の道筋の町々の掃除をするよう触れも出し、くれぐれも諸事手違いのないようとある。これらの記録は津山藩文書や、町方文書の「大年寄月番日記」にも詳しく、非常に興味深いものがある。(文: 竹内佑宜)(写真:岡山県立津山高等学校蔵)


元気の出る歴史塾ー伊能忠敬55歳からの挑戦ー

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 2016年9月24日(土)午後6時30分より津山市総合福祉会館3階で、岡田幹彦先生を講師にお招きした「元気の出る歴史塾ー伊能忠敬55歳からの挑戦ー」の講演があり参加して来ました。
 伊能忠敬は1800年から1816年までの17年間をかけて全国を測量し『大日本沿海輿地全図』を完成させ、日本史上初めて国土の正確な姿を明らかにした人です。
 先生は、産経新聞に半年の約束が2年書き100回位しゃべったそうです。また、伊能忠敬は人生50年の頃に55歳から歩き始めたと言うことで、今なら70歳~90歳まで歩いたことになる偉大な人だった。
 忠敬のエピソードとして、忠敬は九重黒浜の網元であり、田んぼもある裕福な家で育った。幼い頃は病弱で、夜も時間が来るとそわそわしていた。また、よく忘れ物をしたそうだ。でも、勉強大好き人間(東大一直線の秀才)だったそうです。

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 忠敬がどうしても地球の大きさ(西洋でも解らなかった緯度一度の長さ)を知りたいと思い、天地の理、科学的真理を極めることだと決心し家督を譲り、莫大な隠居料をもらい隠居し本格的な地図作りをした。 最初は、北海道で役所と家を往復して惑星を図り、すでに緯度一度はこれだと言っていたそうだ。江戸から北海道まで歩いて何回も測って緯度一度を調べ、酒も飲まず16年。私が亡くなったら恩師(50歳で高橋至時に弟子入りしたとき、至時はまだ31歳だった。)の隣に埋葬してほしいとの遺言があったそうだ。

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当時、世界で一番正確だと言われたフランスの地図よりも正確な地図だったそうです。
なぜなら、フランスは国境で海岸がないから比較的真っ直ぐに早く測れた為、そう正確には測れなったが、日本には小島が多いから10倍くらい長い時間をかけて緻密に図っているから、かえって正確な測量となったそうです。

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(文・資料:岡田幹彦先生より)