近長(地域別/津山市/津山地域)

近長代官屋敷跡(近長)

jinya8.jpg

近長代官屋敷跡(近長)
 堀坂村や田熊村を含む吉野・勝北2郡のうちの1万9千石は、1747(延享4)年から常陸国土浦藩(現在の茨城県土浦市)の藩主・土屋家の領地となりました。
最初は吉野郡下町村(現在の美作市大原町)に役所が置かれましたが、1790(寛政2)年、吉野郡1万石が没収され、近長へ陣屋を移しました。
その後、廃藩置県が行われるまで、120年以上にわたって土屋氏によって治められており、村民との関わりも、他の飛び地と比べて深かったとされています。(文:津山洋学資料館友の会 第26回史跡見学会津山に残る和算家の足跡を訪ねてより)2014年10月8日取材

近長代官屋敷跡(近長)の続きを読む

河面 国分寺台地を潤した牛の子用水

mizu2.jpg
2012.4.21
 牛の子用水は、河面地域にある水田の灌漑用水であるが、かつては、河辺地区の国分寺台地の水田を潤していた。楢にかかる桜橋の約200m下流にある加茂川牛の子渕から取水し、近長~河面~河辺井ノ口~国分寺~瓜生原と、延々およそ7,500mに及ぶ、近郷まれに見る長大な用水路であった。
 国分寺に至るこの用水路は、明治8年に着工し、村中総動員の突貫工事で、明治9年の(1876年)5月に竣工し通水を見た。当時、勝南郡国分寺村・瓜生原村は、池水や天水に頼っていた高台のため、水不足になやみ度々干害を受けた。地租改正令の実施に伴って年貢米から現金によって定額の地租を支払うようになったため、干害の被害は重大であった。関係者が協議を重ね、近長・河面村の協力支援を受けて、この大工事に着手したのであった。今も、これを記念して「明治新渠之碑」という記念碑が、国分寺境内に残されている。(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)

河面 国分寺台地を潤した牛の子用水の続きを読む
これより以前の記事