【津山人】 米井源次郎之碑(下高倉東上塩)

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麒麟ビールの初代社長 米井源次郎之碑(2013年4月10日取材)

 上塩池西側の米井澄近宅沿いに「米井源次郎之碑」がある。蘭学者で医者の仁木永祐が籾保村に開いた籾山校に学び、上京して慶應義塾を卒業後、財界人として明治時代の近代国家確立の一翼を担った米井源次郎の功績を称えるために、生家の当主澄近氏が平成6年(1994)3月に建立した碑である。


 文久元年9月16日下高倉東1723番地に米井仲平の次男として誕生、蘭学者 仁木永祐氏の籾山校に学ぶ。後津山藩の豪商磯野氏の世話になり、慶応義塾に学び明治18年3月同校を卒業。後 磯野商店の大番頭として活躍。三菱銀行岩崎久彌氏に信頼され、麒麟ビール、明治ゴム、株式会社ヨネイ等の社長を努めると共に明治屋(旧磯野商店)二代目社長をも努めた。
 行年59才 葬儀には、天台宗の大僧正をはじめ多くの政界人や財界人が参列した。(文:米井源次郎之碑より)

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 源次郎が財界に頭角を現したのは、津山藩出身の磯野計が創業した明治屋(食品系専門商社)での手腕が三菱財閥の岩崎久彌に認められ信頼されたことによる。

 明治30年(1897)に、機械・金属・雑貨の輸出入を手掛ける米井商店(現在 株式会社ヨネイ)を磯野計と創業して社長に就任。日露戦争当時には、イギリス産の無煙炭を海軍に納入した記録が残っている。

 明治33年(1900)に合資会社 明治護謨製造所(現在 明治ゴム化成)の創業に尽力して社長に就任。明治36年(2003)には明治屋の2代目社長に就任。明治40年(2007)には明治屋が一手販売権をもっていた「麒麟ビール」の製造会社ジャパン・ブルワリー社を岩崎久彌の協力を得て買収、麒麟麦酒株式会社(現在 キリンホールディングス)を設立して初代の専務取締役に就任。大正8年(1919)7月に58歳で逝去した。

【付記】銀座2丁目にある株式会社ヨネイの本社ビル(ヨネイビル)は、東京都の「歴史的建造物」に指定されている。(文:米井郁人)

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生家の前には池がある。              大きな門構えの家

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昔の使用人の部屋                  昔の瓦屋根

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自宅庭先でお話くださった米井澄近さん

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この門の瓦には阿黒家の紋が入っています。

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三代目と四代目さんです。

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池の辺にあるのですが、昔から「じじばばの墓」と呼んでいたそうです。これは使用人さんのお墓で、前列が男性、後列が女性の方のお墓なんだそうです。


米井源次郎 - Wikipedia

米井 源次郎(よねい げんじろう、文久元年9月16日(1861年10月19日)-1919年(大正8年)7月20日)は日本の実業家。麒麟麦酒の創設に携わり、明治屋の2代目社長を務めた。

文久元年9月16日(1861年10月19日)、美作国苫川郡高倉村(現・岡山県津山市)で生まれる。上京して慶應義塾で学び、3歳年上のまたいとこである磯野計が創業した明治屋を在学中から手伝った。卒業とともに同社に入社し、1897年(明治31年)に計が亡くなると明治屋の2代目社長に就任し、残された一人娘・菊子の後見人となった。

当時、ジャパン・ブルワリーが製造するキリンビールの国内での一手販売権を明治屋は得ており、計の死後もこれを継続するかブルワリー社内では意見が分かれた。結果、米井を信頼していた三菱財閥の豊川良平が米井の保証人となる事で継続が認められている。札幌麦酒(現・サッポロビール)の東京進出や麦酒税法の施行が決定したことを受け、競争力向上を目指して1901年(明治34年)にジャパン・ブルワリーとの契約を改定し、手数料以外に割戻金も明治屋に支払われるようになった。

一方、1902年(明治35年)には、後見人を務める磯野菊子の婿に、磯野商会部長の松本長蔵を迎えた。豊川良平の勧めもあって翌1903年(明治36年)には長蔵を明治屋に入社させ、同社を米井と長蔵の両者が出資する合名会社に改組した。

麦酒税法の施行はビール業界の再編を促し、1906年(明治39年)には70%近い市場シェアを占める大日本麦酒が誕生した。この際にブルワリー社も合併への参加を呼びかけられており、会長のゼームズは高齢な事から事業を他者に譲渡して帰国することを決めた。米井は三菱財閥と相談して全事業を買収し、翌1907年(明治40年)に同社を解散して麒麟麦酒株式会社を設立している。明治屋は引き続き一手販売権を得て、米井は麒麟麦酒の専務取締役に就任した。

長蔵とともにキリンビールの拡販に努めた後、1919年(大正8年)7月20日に58歳で逝去した。明治屋の社長には長蔵、麒麟麦酒の専務には井田清三が、それぞれ後任として選ばれている。(Wikipediaより)