市場蟹子川沿いの堀内家墓地-大庄屋代々の墓-

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 下高倉西市場の景山典子氏宅北側の蟹子川岸に堀内本家所有の墓地がある。石組みによって築いた台座の上に、南から五輪の塔が4基、蘭塔墓、位牌墓、蘭塔墓と7基の墓が並ぶ格式の高い墓地で、五輪の塔は欠けた部分があるが、蘭塔墓2基はよく保存されている。

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調査の結果
 南の蘭塔墓 外右縁 寛文十三癸亥年(1673) 中正面 妙法蓮華経(下の戒名は不明)
 北の蘭塔墓 外右縁 元禄六年癸酉(1693)  左縁 七月廿四日、
          中正面 南無妙法蓮華経(下の戒名は不明)、左側面 施主堀内甚助
 笠付位牌墓 表中央 妙法蓮華経圓悟妙祐霊、
          表右  正徳元年(1711)  表左 七月三日

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 南側の蘭塔墓は没年から大庄屋三代目の惣右衛門之正の墓と考えられる。北側の蘭塔墓は没年から三郎右衛門の父與左衛門保正の墓ではと期待していたが、戒名が判読出来ず、施主が本家の堀内甚助(大庄屋三代目惣右衛門之正の孫で本家八代の当主)であったことから、甚助の父忠右衛門重正の墓ではないかとの疑問が残った。
 本家の代々の墓はこの場所の東の丘の上にある。五輪の塔、蘭塔墓もあるが雑然していて大庄屋にふさわしい墓はなく、初代大庄屋の三郎右衛門忠正、二代目の惣二郎正吉の墓は見当たらない。刻まれた没年が元禄12年(1699)と元禄13年(1700)で埋葬者が特定できない2基の蘭塔墓があるが、蟹子川岸の蘭塔墓より小さく簡素である。また、忠右衛門重正は三郎右衛門兄弟が処刑された元禄12年には生存していたことを示す記述(美作名門集)があることから、甚助の父忠右衛門重正の墓は蟹子川岸の蘭塔墓(元禄6年没)ではなく、丘の上の墓地にある蘭塔墓の一つと考えられる。したがって、蟹子川岸の「北側の蘭塔墓」は予想していた大庄屋四代目で三郎右衛門の父の與左衛門保正の墓とするのが妥当であろう。

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 笠付位牌墓については、保正の妻(三郎右衛門の母)は事件後高倉を離れていることと、夫婦墓の位置関係から右側の惣右衛門之正の妻の墓と考えられる。 
 これらのことから堀内本家は大庄屋に任じられた後、大庄屋としての格式ある墓地をこの場所に築いたものと考えると、五輪の塔4基が初代と二代の夫婦の墓で、その北に三代目の惣右衛門之正の墓と妻の墓。次に四代目の與左衛門保正の墓が並び、丘の上の墓地と蟹子川岸の墓地の関係がはっきりする。
 與左衛門保正の墓については、三郎右衛門が建てるべきところ、その処刑のよって放置されていたのを、堀内甚助が建立し「施主堀内甚助」と記したとすれば説明がつく。なお、與左衛門保正の妻(三郎右衛門の母)の墓は萬福寺にある三郎右衛門一族の墓の左端にある墓(芳住院妙徳大姉・宝永5年 1708没)であると見られる。また堀内甚助以降の墓は、丘の上の墓地(2か所)にすべて存在することが確認されている。

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2013年3月21日・31日取材  (文:高倉の歴史と文化財より)