旧郷社 田神社(たじんじゃ)と荒神社
田神社(たじんじゃ)由緒
当社は貞観年中(859~877)に行教法師と田口信濃介統範が豊前宇佐八幡宮の御神霊を勧請して創建したと伝えられている。応神天皇、神功皇后を祭神とする。
もと上采に所在したが、大正7年(1918)に田神社を主祭として天剣神社、千家里神社、天津彦神社を合祀して一村一社とした際に、現在の鎮座地 金粟(こんぞく)に移転した。2014年1月12日取材
いきなり急な階段です。
狛犬
また、階段ですが、ふと見ると両脇には桜の木が沢山植えてあります。
春に咲く桜の花が見事でしょう。
拝殿 客殿
本殿:文化4年(1807)再建された天剣神社の社殿を移築したものである。
合祀された各神社の由緒
天剣神社(あまつるぎ):天安2年(858)徳万による創建と伝えられる。神楽尾山上にあった社を永禄13年(1570)神楽尾城主の大蔵甚兵衛尚清が身内丸山に移転再建した。
伊邪那美命、速玉之男神、事解之男命を祭神としていた。
千家里神社(ちかさと):天安2年(858)徳万による創建と伝えられる。万代高尾にあり建御名方命を祭神としていた。
天津彦神社(あまつひこ):天安2年(858)杉山徳之進による創建と伝えられる。川西祭田にあり天津彦彦火瓊瓊杵命を祭神としていた。
御祭神
(主祭神)応神天皇、神功皇后
(合祀神)伊邪那美命、速玉之男神、事解之男命、建御名方命、天津彦彦火瓊瓊杵命、地区内諸神
荒神社:弘化4年(1847)再建された千家里神社の社殿を移築したものである。
稲荷神社
安産・豊作のご利益があると言われている金粟稲荷神社
境内より町内を望む 境内
紀念石碑 神楽尾城跡が見えます。
2014年4月6日のさくら
2014年4月6日のさくら
2014年4月6日のさくら
写真左:【国史現載社】田神社は国史の三代実録(印本)に神階授与の記録がある国史現載の神社である。貞観6年(864)に従五位上に寂された。
写真右:【貞観6年8月15日 美作国従五位下 長田神、莬上神、田神、加佐美神、形売神、壱粟原神、横見神、久止神、高野神等並授従五位上】
天剣神社棟札:永禄13年(1570)神楽尾城主 大蔵甚兵衛尚清により再建された天剣神社の棟札「天劔大明神奉再建立大願主神楽尾御城主丹治氏大蔵甚兵衛尚清 神主宮岡右兵衛源信正」とある。永禄13庚午年の年号が記されている。179m×14cm
【要旨】
永禄13年(1570年)の戦国武将大蔵甚兵衛尚清が願主となって再建した天剣神社の棟札が発見された。この棟札のことは、元禄4年(1691年)に書かれた作陽誌に記載されており約300年振りに現物が発見され、歴史書の記述と一致することが確認できた。
【発見経緯】
平成24年12月に田邑の歴史を勉強する目的で田邑歴史研究会が発足した。美作研究の基本史料である作陽誌を勉強するうちに天剣神社の棟札のことを知った。棟札が現在まで残っているとしたら田神社のどこかにあると考えて、宮司に許可を頂き、本殿を探して発見した。天剣神社は貞享元年(1684年)にも再建されたようで、この時の棟札も同時に発見された。
【背景】
天剣神社は作陽誌の記述によると、天安2年(858年)徳万なる人物が、熊野三社権現のお告げにより創建と伝えられる。神楽尾山上にあった社を永禄13年(1570年)毛利の武将大蔵甚兵衛尚清が戦国時代の戦火を避けるために山麓の身内部落丸山に移転再建した。(添付資料 作陽誌)
大正7年(1918年)に、旧田邑村内にあった田神社(たじんじゃ)、天剣神社(あまつるぎじんじゃ)、千家里神社(ちかさとじんじゃ)、天津彦神社(あまつひこじんじゃ)の4神社を合祀して一村一社とした。現在の田神社本殿は当時の天剣神社本殿を移転したものである。この本殿移転の際に天剣神社棟札も一緒に移転、保管されたものと思われる。天剣神社は440年間に何回か再建されているが、棟札が一度も火災に合わず紛失もなかったのは奇跡に近いのではないか。
今回、合祀された千家里神社などの棟札12枚も一緒に発見された。(計13枚)
天剣神社(出典 作陽誌)
天安2年(858年)に熊野神が夢に現れお告げをしたことにより宮岡徳万が創建したと伝えられている。
作陽誌によれば、当初は神楽尾山上にあった社を、永禄13年(1570年)神楽尾城主であった毛利の将大蔵甚兵衛尚清が、戦火で消失するのを怖れ、西北山麓の身内丸山に移転再建したとしている。寛永年中(1624-1644)には4官4職、社男家、神子家、計10人を置く規模の神社であった。その後、貞享元年(1684年)と文化4年(1807年)に再建された。
美作総社の重陽の祭、すなわち9月9日には一宮中山神社、二宮高野神社の神輿ほか近郷計10社が参集し各社の弊が捧げられる中に天剣神社も加わっていた。美作の代表的な神社の一つだったといえる。
(情報提供:田邑歴史研究会)