津山洋学資料館前庭の洋学者のブロンズ像

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津山洋学資料館は平成22年3月に新館がオープンし、その前庭に宇田川玄随・宇田川玄真宇田川 榕菴・箕作阮甫・箕作秋平・津田真道の5人の胸像が置かれています。いつも拝見するのですが、はて?この方たちの年代と何時、何処で、何をしたかがごちゃまぜとなってしまっているので、各人のプレートから少しまとめてみました。


津山洋学資料館(つやまようがくしりょうかん)は、岡山県津山市の城東町並み保存地区にある博物館です。建物は「津山洋学五峰(宇田川玄真・箕作阮甫・津田真道・宇田川玄随・宇田川榕菴)」をモチーフに五角形を基本として設計されたとされています。

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宇田川玄随(1755-1797)
 宝暦5年(1755)江戸鍛冶橋津山藩邸に生まれる。杉田玄白、前野良沢、大槻玄沢らと交わり、蘭学を志す。
寛政5年(1793)オランダ人内科医ヨハネス・デ・ゴルテルの西洋内科書を翻訳し、それを「西説内科撰要」として刊行した。これにより我が国近代内科学の礎となり、また津山洋学の始祖ともなった。寛政9年(1797)江戸茅場町で没す。


1792年(寛政4)年10月19日、玄随が主導し、津山在住の藩医を始め、町医者2名が参加して、津山ではじめての解臓(解剖)を行った。


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宇田川玄真(1769-1834)
 明和6年(1769)伊勢の安岡家に生れる。
江戸に遊学し、津山藩医 宇田川玄随に師事、寛政10年(1798)その養子となる。
江戸時代のベストセラー外科書「和蘭内景医範堤綱」のほか「和蘭薬鏡」「遠西医方名物考」などの薬学書を著す。
 文化10年(1813)幕府天文台の翻訳員に登用され、「ショメール百科全書」の翻訳に携わる。坪井信道・箕作阮甫・緒方洪庵ら多くの門弟を育成し、蘭学中期の大立者と称された。
天保5年(1834)江戸に没す。


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宇田川 榕菴(1798-1846)
 寛政10年(1798)大垣藩医江沢養樹の長男として江戸に生れる。14歳にして江戸蘭学界の大立者 津山藩医宇田川玄真の養子となり、蘭学に志をたてる。津山藩医のかたわら幕府天文台の訳官にも登用され、蘭医シーボルトとも交友をもった。
 わが国最初の植物学書「植学啓原」や、わが国最初の化学書「舎密開宗」を著し、「日本近代科学の生みの親」と称される。弘化3年(1846)江戸に没す。


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箕作阮甫(1799-1863)
 寛政11年(1799)津山西新町に生まれる。江戸に出て宇田川榛斎(玄真)に從い志を蘭学に立てて医学を究め、進んで広く語学、地理、歴史、地学、兵学、造船、兵器等にわたり研鑽をかさね、その翻訳著述は二百巻にも及んだ。また蕃書調所 開成所の教授となり 種痘舘創設を首唱して医学所設立のみちを開くなど後進の啓発育成に尽し 著述と相まって我が国近代科学の開発興隆の基を拓いた。更には幕末困難な外交折衝の間その機務に参画して功績をのこし 文久3年(1863)江戸湯島で没した。


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箕作秋平(1825-1886)
文政8年(1825)、呰部教論所の学監 菊池文理の二男として阿賀郡下呰部村(現真庭市下呰部)に生まれる。江戸に出て箕作阮甫に蘭学を学び、後にその養子となった。
文久元年(1861)、幕命により通商条約実施延期交渉のため、欧州六か国を訪問。また慶応2年(1866)には、北方領土境界交渉のためロシアを訪問するなど、幕末の外交交渉に活躍した。維新後、英学塾「三叉学舎」を開設、原敬・東郷平八郎・平沼淑郎ら多くの門人を育成するとともに、森有礼・津田真道・福沢諭吉らと明六社を興し、明治初期の代表的知識人として知られた。19年(1886)東京で没す。


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津田真道(1829-1903)
 文政12年(1829)津山藩士津田吉太夫の長男として上之町に生れる。
学問を志し、江戸に出て箕作阮甫・伊東玄朴に蘭学を、佐久間象山に兵学を学ぶ。文久2年(1862)、幕命によりオランダに留学し、帰国後「秦西国法論」を著す。明治23年(1890)
衆議院議員に当選し、初代副議長に選ばれた。のち貴族院議員を務め男爵となり、法学博士の学位を受領するなど、わが国の法曹界、政界において活躍した。明治36年(1903)東京で没す。


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