川上音二郎と作楽神社

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 川上音二郎が津山に来たころは意気さかんなときで、洋行帰りとして「オセロー」を上演したりしていたが、彼は一面で皇室を中心に忠誠をつくすという日本人の典型的な人物でもあったから、忠臣「児島高徳」に興味をもって、自分の演劇にも生かしていた。津山に来る動機もこれに関連がある。大津楼の津田正気が知人でもあって、一度は津山へという話ができていたこともあったらしい。一行は津山では当然に「児島高徳」を上演したが、川上の高徳はミノをつけていないのが特徴、貞奴が後醍醐天皇にふんして登場したりした。
 川上は興行のフタあけ前に作楽神社に参拝したのだが、自分が思っていたよりは寂しい構えなので、内心驚いた。何とかしたいと津田に相談をもちかけ、結局、個人として拝殿と社務所を新築して寄贈したいと決心、当時作楽神社は県社であったから、県へ申請の必要があり、少しおくれて3月に岡山に行ったとき申し出ている。もちろん県ではありがたいこととして受け、作楽神社では7月に工事奏上式地と鎮祭をした。そして拝殿と社務所が川上音二郎の寄付ででき上がったのだが、落成式は41年春の大祭日である4月22日。このときは川上は参列できなかったので、こもかぶりの酒樽をお祝いとしておくっている。川上が自分で寄付した建て物を見に来たのは44年(1911)9月3日、やはり再度津山で興行をし、同時に座員一同をつれて参拝している。

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 川上は41年に二世市川左団次と組んで革新劇ということをはじめ、大衆へ安く芝居がみれる運動をしている。43年に大阪に帝国座を建て、ここで活躍中の44年11月10日、48歳で死亡した。だから死の直前に津山に来て、作楽神社が立派になっているのを見とどけたわけだ。作楽神社の当時の社司・松岡重義は葬儀に弔電を打っているが、敬神の志のあつかった川上の慰霊祭を、大正2年10月22日の秋祭りのおりにあわせ執行している。貞奴を招いたが来れなかったので「厚意を謝す」と電報をよせ、五円のおそなえをしている。

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貞奴はもと葭町(よしちょう)で芸者をしており「奴」--ヤッコ--と名のっていた。音二郎と結婚してから舞台に立ち日本で女優といわれた最初の女性でもあった。音二郎死後も、大正6年まで舞台に立ち、また帝国女優養成所をつくり、後進の指導にもあたった。
 川上は南洋探検ボート旅行を企画したり、一部では山師的夢想家ともいわれたが、俳優としてはシワガラ 声で演技的にもやはり素人の出という印象はぬぐえなかったが、興行的天分にすぐれ、機略の富んで、新派の興隆には功績があった。

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音二郎の建てた拝殿はいま横手に移転され、舞楽殿になっている。社務所は改築された。なお、当時の本殿がいまの宝物殿である。(文:『作州からみた明治百年』上より)

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オッペケペー節や壮士芝居で有名な川上音二郎は、晩年、妻の貞奴と共に、児島高徳の史劇で全国をめぐったが、津山を訪れた際、作楽神社の参拝してその荒廃を嘆き、独力で拝殿と石橋を寄進した。明治未年のことである。
今、神楽殿として使用しているこの建物がその拝殿であり、NHK大河ドラマ「春の波涛」のヒロイン貞奴とおの夫音二郎の敬神の志しを今にとどめている。 昭和六十年三月 津山観光協会

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宝物殿

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写真向かって左 wikipediaより。
写真向かって右:『作州からみた明治百年上』より。津山のどこで撮られた写真なのでしょう?

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色々な児島高徳像がありますね。(撮影:ふるさと資料館「温故懐館」特別展より)