白神大明神(津山市押入)

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小野のお通
 江戸時代のはじめのころのことです。
 高野押入村に、女の子が生まれました。名をお通といいました。小野は、母方の姓です。 
 お通は5才で、和歌をよみました。10才になると、布を織ることをおぼえ、12才で、むずかしい漢学の本がよめるようになりました。  
 そのうえ、とても美しい娘だったので、美作の国中で評判になりました。
 16才になったときうわさを聞いた都のお金持ちが、およめにほしいともうしこみました。お通は気がすすまないようすでしたが、およめにいくことがきまりました。

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押入のひっそりとした所にあります。

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白神大明神

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白神大明神

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白神大明神の周りの景色

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小野のお通の石碑
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小野のお通の石碑

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小野のお通の石碑

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津山中央病院駐車場から望む (2014年12月9日取材)


小野のお通
 江戸時代のはじめのころのことです。
 高野押入村に、女の子が生まれました。名をお通といいました。小野は、母方の姓です。 
 お通は5才で、和歌をよみました。10才になると、布を織ることをおぼえ、12才で、むずかしい漢学の本がよめるようになりました。  
 そのうえ、とても美しい娘だったので、美作の国中で評判になりました。
 16才になったときうわさを聞いた都のお金持ちが、およめにほしいともうしこみました。お通は気がすすまないようすでしたが、およめにいくことがきまりました。
 5日もかけて都につき、結婚式をあげました。  
 夫婦になったしるしの杯をかわし、つづいてにぎやかなえん会が開かれました。その最中に花嫁がいなくなってしまいました。みんなは、あわててさがしましたがみつかりませんでした。
 ちょうどそのころ、お通は、高野の家に帰っていたのです。
 お通は、家の人たちに
「わたしは、もともと結婚したくなかったのですが、両親のねがいなので、式だけはあげ、すぐに帰ったのです。」と、話しました。
 このふしぎなできごとののち、お通は愛染明王という仏さまをお祈りするようになり、薬草の勉強をねっしんにしました。
 18才になると、親のゆるしをもらって旅に出ました。都やいろいろな地方をめぐりました。そして、病気で苦しんでいる人があると、お祈りをしてなおしてあげました。
 お通がふしぎな力をもっているといううわさは、都まで広がりました。 
 そのころ都では、帝が重い病気にかかっていました。
 お通は、宮中に呼び出されて、帝の病気をなおすお祈りをたのまれました。お通は帝の病気をなおすために、祭壇をつくり、その上に九つの水おけをそなえました。それから、三日三晩祈りつづけました。
 やがて、水おけのそこからたくさんの、小さなへびが浮かび上がってきました。へびはたがいにかみつきあって、死んでしまいました。するとふしぎなことに、帝の病気はすっかりなおってしまいました。
 帝はたいへんお喜びになって、ほうびにたくさんの宝物をあたえました。そして、お通を帝のおそば近く、宮中に住まわせました。帝は、美しくてかしこいお通を愛され、たいせつにしました。
 しかし、お通は宮中のくらしになじめず、歌をのこして去っていきました。
 すみなれし 大内山を あとにして  
   身のさがかくす 草のすげごも
 この歌を読まれた帝は、お通は都の西のはずれ、嵯峨にいるにちがいないと思われ、使いの人をさしむけました。
 お通のすんでいる小さないおりはすぐに見つかりました。しかし、お通のすがたは見えず、るすを守っている女の人がでてきて、お通からあずかっている一枚の短冊を、使いに人に渡しました。短冊には歌がかかれていました。
 もとめなよ 花ももみじも おのずから 
   したう心の うちにこそあれ
 帝は、とてもざんねんに思われました。
 それから後、お通は前のようにいろいろな地方をめぐって、病気の人や困ってる人を助けました。
 京都にあたご山という、神をまつってある高い山があります。多くの人が苦労して登っていましたが、お通は、登山のめじるしになる石を一町(およそ百十メートル)ごとにたてました。今も「町石」と呼ばれて、残っています。
 28才になって、お通はとつぜんふるさとの両親の家に帰ってきました。そして、わたしのいのちはここまでで、もうすぐ死にますとつげました。家族の人たちはおどろきましたが、お通は自分のたましいはいつまでもここにいて、この家を守る神となるでしょうと、いいました。
 歌を残して、なくなりました。
 いつまでも 散らでさかりの  
   花やあらん 今はうき世を 秋のもみじ葉
 寛永7(1631)年9月13日のことでした。
 お通の死をお聞きになった帝は、「白神大明神」とかいて、とむらいのお金といっしょにとどけました。家族の人は、しづな山のお通のお墓に小さなこほらをつくっておまつりしました。  
 その後、帝は津山の殿様に神社をつくるように命じられ、白神神社がたてられました。
 お通という女性の伝説は、全国にいくつか伝えられていますが、生まれた年やところがわかっているのは、この小野のお通だけだといわれています。

(文:高野小学校 むかし高野より)