発掘古墳に祀られた本平の早神様(福井)

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 福井の本平集落の西側は、山地となっているが、そこに井ノ奥谷(いのおくたに)と呼ばれる谷がある。そこには、明らかに半ば削り取られたとわかる古墳があり、その中央部分を平らにして、早神様(はやがみさま)と言われる小詞が祀られている。また、その後側のすぐ近くに、井上一族のこれまた珍しい先祖社が祀られている。
 所在は、井ノ奥谷に入ってすぐ山際北斜面である。
 その場所は、かつて森藩政のもとで、福井村の大庄屋であり、福井八幡宮の軒札にも名前が記載されている井上五良兵衛(いのうえごろべえ)の屋敷があったすぐ裏手の山である。井上五良兵衛の庄屋屋敷は、今は全く畑となっているが、屋敷裏の谷には、いまも防火用水池のあとが残されている。その池付近から、この古墳や祠を見ることができる。
 津山市の埋蔵文化財センターでは、この山地に本平古墳群として、三基の古墳を登録しているが、古墳時代末期の、この早神様が祀られている古墳もその一つに該当している。

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 この古墳については、発掘にまつわる次のような謂れがある。
 明治20年(1887)ころ、地元の青壮年数名が発掘したところ、多数の土器や曲玉などの副葬品が出土した。驚いて当時管轄の勝田郡日本原の警察に連絡すると、大瀬の役人や警察官が見学に訪れ、やがて、出土品は全部郡役所へ納めさせられたと言う。その後、古墳を発掘した者の中に、不幸に見舞われたり、死亡者がでたりして祟りをおそれる声が高まり、明治34年ころ、ここに祠を設け、神様を祀ることで安泰を祈ることとなった。こうして、いわゆる早神様が生まれ、これより本平の住民により祀られることとなった。
 年月が経ち、次第に祠も老朽化したことから、昭和60年、浄財を募って新しい祠を設置した。市内八子八幡宮より井口神主を招いて新規にお祓いをしてもらい、早神様は再生することとなった。早とは速と同じことであり、日本書記出典の速玉之男神(はやたまのおのかみ)=縁切りの神を祀ることで、悪霊の祟りからの縁切りを宣している。悪霊封じ神様かと思われる。早神様は、今も田植え後村内みんなでお参りするなど祀り続けられている。
 なお、相当の年数が経ってから、古墳から出土の内、役所よりなぜか曲玉(点)管玉(1点)小玉(3点)のみ、地元に返却された。
 これら出土品は、安藤六衛氏が代表して市に寄贈したため、現在、津山市の弥生の里(埋蔵文化財センター)に保管されており、見学することができる。(文:『広野の歴史散歩 宮澤靖彦 編著』より)(2019年10月16日撮影)