田熊 南北朝動乱時代の山城 下木の岩黒城址

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 ▲田熊(たのくま)南北朝動乱時代の山城 下木(したぎ)の岩黒城址(いわくろじょうし)
 広戸川を渡り、下木の集落から東の山手に上ると、高い所に公会堂がある。この公会堂の上の平坦な丘陵地が、岩黒城址(いわくろじょうし)と言われている。
 今は、全く畠となっているが、ここからは、田熊や野田(勝北)の水田地帯や日本原高原の景色が一望できる。一方、田熊の水田地帯から城址を眺めると、平地に突き出た山裾の丘陵を利用した山城であることがよく分かる。
岩黒城址については、美作古城史(三)に次の記述がある。
 「津山市田熊(元勝田郡広野村)に岩黒城址があり。井上蔵人(いのうえくらんど)の居跡と伝えられ、東作誌には、古城 岩黒城 城主井上氏今は百姓持林となる。堀切の跡纔(さい=わずかに)見ゆ 少し切りならしたる跡ある而巳(のみ)なり 云々と載せてあり、古城麓に現存する井上氏がこの城の関係者として伝えられている。」(2012.1.9取材)

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▲手前の竹やぶが岩黒城址。向かって右手に田熊八幡が見える。 
 岩黒城は、14世紀前半、井上蔵人により築かれた山城である。井上家の系図によると、井上氏の祖先は、もともとは源氏ゆかりの武士であった。1221年、承久の乱による後鳥羽上皇の隠岐配流(おきはいる)の際に、警護の武士であった源信正が、「勝田郡広野郷に至り病にかかり、この地居住して郷土となる。」こととなった。
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▲井上先生の旧診察室            ▲案内くださった井上さん宅は屋号がいわくろ
 この信正が、出身地の信濃国高井群井上に因んで、美作井上の祖となった。その子孫は、在地武士団を形成し、後醍醐天皇の隠岐脱出・船上山の旗あげに馳せ参じ、1333年、赤松則村に味方し京の六波羅攻(ろくはらぜ)めに加わった。
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▲岩黒城址は荒れて雑木が茂っている。
 建武2年(1335年)、地元田熊の佐々木直正の次男が、婿入りした。井上正清蔵人を名乗り、五代目を継いで、岩黒城を構えると共に、田熊八幡宮を祈願所として再建をはかった。
 しかし、不運にも1361年には、作州に攻めに入って来た山名時氏軍に対し、赤松貞範に味方して戦い、敗れて近くの横部村に潜居する次第となった。
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 その後、赤松義則が美作守護職に付くに及び、再び出仕し、蔵人の孫、正氏の代になると、宮山城主植月勘解由の長女を迎え、広野・植月二郷の地頭職に付くまでになった。それからは、また赤松と山名の勢力争いや戦国時代の戦乱が続いたため、作州在地領主の例にもれず、幾たびか興亡を重ねて来ている。
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 当時の面影はないが、今は、岩黒屋と言われる井上家の下にある薮のなかに、その当事の立派な五輪塔や、崩れてはいるが、武士特有の大きな墓石を見ることができる。とくに、台石に「寛文八年(1668年)○為 元法浄味菩提十二月七日」と刻まれている。墓は、三百年を経て再建立された井上蔵人のものと言わ れている。 森藩時代の当時、庶民の石塔は二尺五寸(約80・)以下に抑えられていたことから、明らかに武士身分の墓であることに注目したい。
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 1603年、信州より美作の国守として入国した森忠政は、作州の地侍、土豪、浪人者に対しては、大庄屋級には取り立てても、家来としては一人として採用しなかった と言われるぐらい、厳しい対応をした。その点、井上氏(正光)は、まさに例外中の例外であった。森忠政に召されて津山に居住するようになったのは、「津山城築城の際 普請に付 大積算術に輿感の旨」があったことと、何よりも祖先は信州という同じ国元であったことが、大きく幸したのではないかと考えられる。
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 やがて、正光の子正隆を経て、孫の井上四郎兵衛正澄は高千石の城代組頭となり、森藩廃絶の時には、森采女、各務兵庫、原十兵衛らと共に、重臣の役割を果たした。その後、四郎兵衛は、林田に転出、森断絶後の井上家の正統は、古林田に移り、在村井上家は、百姓として存続したのであった。(文:『広野の歴史散歩 宮澤靖彦 編著』より)