学ぶ(観光スポット情報)

山陰の小京都 ー 石州 津和野を訪ねて

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 2025年6月1日「第42回 津山洋学資料館友の会研修旅行」に参加させていただき、三津同盟ゆかりの地 石州津和野を訪ねてきました。津山市からは片道約4時間の旅でした。
 山陰の小京都と言われる津和野と言えば、まず思い出される景色は、古い屋敷の並ぶ街並みと、水路を泳ぐ鯉でしたが、今回実際歩いてみると、鯉が泳ぐ「殿町通り」、商家や酒蔵などが立ち並ぶ「本町通り」等など現代に続く歴史や文化を知ることができたことです。古い街並みを残し育てあげた津和野の人々の思いを感じながらいい町だなぁ~と。また、国際アンデルセン賞を受賞した安野光雅さんの絵本や風景画が大好きで「安野光雅美術館」は是非とも行きたかった所の一つだったので私にとって嬉しい研修でした。

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江戸時代の庶民の貴重な実例『美作孝民記』

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 近世美作の孝行のあり方や庶民生活の資料として、貴重な事例を提供してくれる『美作孝民記(みまさかこうみんき)』(文政3年刊行、10巻10冊、甲田行喜編)
 実話にもとづく孝子伝です。著者は医業を営むなかで貧しい農民の生活実態を知り、その中から親孝行の実例を収集・編集しました。数多くの挿絵が用いられており、江戸時代の美作の庶民生活をうかがい知ることのできる貴重な資料です。(文:津山郷土博物館企画展示説明より)
※上記の絵は、田熊下村 弥三八(現:津山市田熊)の挿絵。

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作州忍者鶴山隊 2024 国際忍者学会参加報告会と研修会

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 2024年10月26日(土)13:30~15:00 津山城西公民館において、作州忍者鶴山隊の隊長克丸こと 河部克己さんから「2024 国際忍者学会参加報告会」と「甲賀にある津山城」の話を興味深く聞かせていただきました。その後、今年、ともちピンクさんが受験した「甲賀流忍者検定」の資料を頂きましたが、とても難しく検定問題はチンプンカンプンでした。

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「作州忍者 鶴山隊の陣」結成5周年記念講演

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作州忍者鶴山隊結成5周年記念講演会 作州忍者鶴山隊の『陣』
 2024年5月11日、三重大学人文学部教授 山田 雄司氏をお迎えして貴重な講演会となりました。
たくさんのご後援にも、お支えいただき、おかげさまで300名を超えるご来場の方々で、盛会に開催できましたことを心よりお礼申し上げます。
 ご来場いただいた皆様、早朝より設営準備、何より、実行委員会に度々お集まりいただき、お知恵をくださった隊員のみなさん。当日の準備、リハーサル、タイムスケジュールの確認など、記録を担当してくださった方、イベント紹介してくださった企業さま。中世山城の会の皆さま、何より安心のPAベテランのベルフォーレスタッフの方々にも、大変お世話になりました。感謝の気持ちを伝えるにはまだまだ尽きません。全ての皆さま、盛り上げてくださり、ありがとうございます。
また、ご協賛くださった方々、お友達にお声かけしてくださった方々、心より、この場をお借りしてお礼申し上げますと共に開催のご報告をさせていただきます。
 結成5周年は通過点であります。我々は10周年に向けて、しっかりと気持ちを前に、また、津山の観光振興の一助となれますよう励んでまいりますことをお誓い申し上げて、お礼のご挨拶に替えさせていただきます。
 今後とも、ご交誼賜りますようお願い申し上げます。
                      作州忍者鶴山隊結成5周年記念事業
                                  実行委員長 紘太郎
                                    隊長  克丸

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2024年4月7日の高野神社のさくら

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津山市二宮にある美作国二宮「高野神社」は森藩2代藩主長継が再建した神社です。
 2024年4月7日に高野神社で「春祭」が行われました。残念ながら催しには参加できなかったのですが、午後から参道のさくら並木を訪ねてきました。中でも私のお気に入りは、宇那提の森(ムクノキ)(市指定天然記念物)で、度々訪れてきました。長い年月佇んで何を見てきたのか問いたくなります。
海外の青年たちと2009年の秋祭りに参加)(二宮地区の情報も入れていりますのでご覧くださいね。

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津山商工会議所女性会2月例会で淡路島日帰りバス旅行

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 2024年3月7日津山商工会議所女性会の2月例会(親睦委員会主催)で、淡路島日帰りバス旅行に参加してきました。午前9時津山を出発して一路淡路島へ向かい、昼食会場のオーベルジュフレンチの森にて昼食をいただき、昼食会場から淡路島の沿岸のリゾート施設を眺めながら約30分後、目的地の水仙の丘へ到着、早速清々しい空気を胸一杯吸いながら水仙の丘を散策。その後、すぐ近くの伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)に参拝。途中から語り部の方がバスの中で絵本を見ながら説明をしてくださいました。伊弉諾神宮では神社の由来や君が代、さざれ石の由来、神宮参拝の作法など多くの事を学ばせて頂きました。そして、たこせんべいの里、淡路ハイウエイオアシスでお土産を買い込み帰路へ着きました。皆さん、大変楽しい旅で大喜びでした。

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津山商工会議所女性会秋の津山城(鶴山公園)散策

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 10月30日(月)親睦移動委員会 秋の津山城散策
 親睦委員 10 名が参加し、「津山観光ボランティアガイドの会」会長 得能良平氏の案内の元に、曇ひとつない秋晴れの津山城址を散策しました。得能氏の心のこもった熱いお話は、壮大な石垣の上にそびえ立つ津山城を想像させてくれ、改めて津山って凄い、もっと知りたいと思った一日でした。(文:津山商工会議所女性会)


「備中櫓」名前の由来
 初代藩主・森忠政は、鳥取藩主・池田備中守長幸(ながよし)に娘・於松を嫁がせました。その娘婿である長幸が津山城を訪れるのを機に建てられたのが備中櫓である。備中守から名付けられました。地名とは関係ありません。備中櫓は人物にちなんで命名された珍しい櫓なのです。発掘調査中、備中櫓の周辺で「揚羽蝶」文様の小さな瓦が出土しています。池田家と館駅のある瓦のようです。忠政は娘婿にちなんだ櫓を建てるにあたって、棟に池田家の由来の「揚羽蝶」文様の瓦を作って使用したようです。(文:現地案内より)(2023年10月30日撮影)(2012年・2017年取材)

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2022つながる「出雲街道」を歩こう会(最終回)

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 2022年10月23日「出雲街道を歩こう会」に参加してきました。
今回の「つながる出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会は、特別企画 第6弾(最終回)として、福力神社附近より津山(津山市役所)までを、東から西へと主催者の「勝間田宿の会」と共催で、「城東まちづくりの会」と「勝山宿の会」で歩きます。
「勝山宿の会」では平成24年より、真庭市内の「出雲街道(7回)・大山みちを歩こう会(6回)」を踏破して、国交省より「夢街道ルネサンス」に認定され「つながる出雲街道」と命名され、東部(美作市・勝央町・津山市)に活動の場を求めて、歩こう会を開催し、記念すべき第6弾の最終回を迎える事が出来ました。
特別企画(第6弾)出雲街道(Ⅱ)を歩こう会(第4区)
福力(福力荒神社附近)~津山(市役所)間7.5km(実質8.0km)
主催:出雲街道 勝間田宿の会、共催:城東まちづくり協議会(津山市)、共催:出雲街道勝山宿の会
協力:津山観光ボランティアガイドの会、助成:(一社)中国建設弘済会

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高瀬舟と昭和の津山駅前商店街

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 昭和57年3月27日高瀬舟進水式の様子(津山市吹屋町・城見橋北側吉井川河川敷)
 高瀬舟を使って吉井川を上下する輸送は、江戸時代になる前から行われていましたが、城下町津山の発展に、高瀬舟の活躍は欠かせないものでした。森忠政や家来たちは、木曽川の川みなと兼山の出身です。河川利用の豊かな知識や経験は、津山でも大いにいかされました。(文:『わたしたちの津山の歴史』より)

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「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会」第5区 No.2

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 津山宿(城下町)
 古代より出雲と大和朝廷を結ぶ道は、重要な路線として開けていましたが、街道としての整備が整ったので、和銅6年(713)吉備より分離され、美作の国として独立し、以来 津山は国府を有し、美作の中心地として栄えてきました。
 街道は多少の変遷を重ねてはおりますが、播磨より県内に入るには、杉坂峠を通る道が古道でした。この道に変化が起こるのは、慶長8年(1603)森忠政が藩主となり、入国以来であり、江戸幕府の命で始まった参勤交代のため、街道の整備に当たらせたもので、当所は出雲往来、出雲往還と呼ばれ、近代になり全国的に街道と、呼び名が統一されて出雲街道と呼ばれるようになった。
 慶長8年2月美作の国18万6500石の所領を授かった、森忠政は3月に院庄の構城跡に館を築き、城の選定を急ぎ、最終地として「鶴山」と決め、吉井川と宮川を見下ろす鶴山を城地と定め、土地名称を「津山」と改めた。秋には徳守神社を総鎮守として造営した。
 元禄10年(1697)四代藩主長成病死のあと、五代藩主として江戸へ発った関式部衆利が発病し、8月森家は改易となった。
 元禄11年正月、松平備前守長矩は美作国津山城を受領し、10万石の領主となり以後危機もあり、所領も5万石になったりしたが、その後は増加に転じ明治の維新を迎える。津山は今も昔も作州の中心である。(「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会」第5区 No.1からのつづき

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