平成28年度 津山郷土博物館特別展「行列を組む武士たち-津山藩松平家の行列図より-」

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ごあいさつ
 津山郷土博物館では、市民の皆さんに郷土の歴史や文化への理解と認識を深めていただくため、定期的に特別展を開催しています。このたび「行列を組む武士たち-津山藩松平家の行列図より-」というテーマで特別展を開催することとなりました。
 江戸時代の支配階層である武士たちは、移動や旅の時に行列を組んで進みました。この行列は、その主人の武威や格式を体現したものであり、単なる行進ではありません。そのため、供の人数や持たせる道具の構成などに細かい決まりがあり、その決まりの中でできる限り立派に見せようと競い合うこともありました。
本展では、津山藩松平家に伝わった各種の行列図のほか、乗物や熊野槍など行列に用いられた道具類を合わせて紹介し、武士の行列を通して江戸時代の社会のありようを概観します。
 今回、現存する松平家の行列図を全て展示します。その中でも、松平家が十万石に復帰した直後の入国行列図は、横長のふすま七枚に仕立てられた。全長十三メートルを超える巨大なものです。大名行列の詳細を視覚的に把握できる貴重な資料として注目されており、津山市庁舎の市長応接室の壁紙にも利用されていますが、その全てを一度に見られる機会はなかなかありません。本展において、多くの方々にその迫力をご体感いただければ幸いです。
 最後になりましたが、本展の開催にご協力いただいた全ての皆様に、心から感謝申し上げます。
   平成二十八年十月八日
    津山市教育委員会 教育長 原田 良一

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参勤交代での行列
文化14年(1817)9月18日、将軍家斉の子息銀之助を藩主松平斉孝の婿養子とするよう申し渡され、10月7日に5万石加増が伝えられて、津山藩はついに悲願の10万石復帰を果たしました。翌年がちょうど帰国の年であったため、斉孝は10万石の格式で帰国することができたのですが、その時の行列を描いたものが、津山に2種類現存します。7枚の襖に仕立てられた「拾万石御加増後初御入国御供立之図」と、3巻の絵巻物に仕立てられた「拾万石御復帰後初御入国御行列図」です。
いずれにも、供の家臣の役職や名前まで記されています。宿の手配など各種の準備のため、藩主に先立って五日前・三日前・前日にそれぞれ出発する先発隊や、藩主が津山城に入城する前日に出迎えとして勝間田の宿に派遣され、本行列を先導している先手の鉄砲・弓・長柄の各部隊まで詳細に描かれ、そのすぐ後ろで町奉行所の同心組が先払いをしている様子から、津山城下に入って威儀を整えて進む姿が描かれていることになります。


道中駕籠 江戸時代
 詳しい由緒などはわかりませんが、武士が使用した道中駕籠と伝えられ、屋根の上に通す担ぎ棒は失われています。
 藩主所用の乗物と比べると簡素な作りで構造も単純ですが、背もたれや脇息(ひじかけ)など長い道中を少しでも快適に過ごすための工夫が施されて点では同じです。側面は乗物のような引戸ではなく、窓の開いた茣蓙が垂らしてあるだけで、これをめくり上げて出入りしました。

kago.jpg(←写真:津山郷土博物館より)

 参勤交代の行列図には、駕籠に乗った家臣が多く描かれていますが、身分の差によって乗れる駕籠も異なり、それぞれを比べると細部に違いが見受けられます。行列図に描かれた多くの駕籠のうち、宇田川榕菴が乗っているもの(下図)が、現存の道中駕籠に近いように見えます。

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宇田川榕菴が乗っている駕籠


kumage.jpg(←写真:津山郷土博物館より)

熊毛槍 津山藩主松平家伝来 江戸時代後期 岡山県指定文化財
 熊毛槍とは、その名のとおり鞘の装飾に熊の毛を用いたものであり、大きさも形も多種多様なものがありますが、この槍ほど大きく重いものは珍しいでしょう。これは津山藩主松平家の目印とされていて、行列では藩主の乗物の近くにこの槍がそびえていました。黒は藩主、白はその嫡子が用いたようです。
 管理・展示の都合上、現在は柄・鞘と身は外して別に保管していますが、それぞれの身に文化~弘化年間の銘が刻まれており、柄・鞘も恐らく同時期に作成されたと考えられます。重量は柄・鞘の合計で約15kgもありますが、各行列図を見ると、他の槍と同様に片手で支えられています。ただし、他の槍が2人交替だったのに対して、この槍は3人交替であったようです。

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             挟箱         熊毛槍         藩主乗物


拾万石御復帰後初御入国御行列図 巻子全3巻のうち 先御供立 
 行列本隊に先行して5日前・3日前・前日に出発し、宿泊や渡河の準備を行う部隊を描いた「先御供立」の巻物を展示しています。

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藩主の5日前に出発する先番部隊          藩主の3日前に出発する女中に付き添う部隊

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藩主の前日に出発する納戸の長持         藩主出発の当日に先行する川割・船割の部隊

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納戸の長持


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津山藩主松平家の江戸での行列の様子がわかる資料も現存します。嘉永6年(1853)11月23日、徳川家定が13代将軍に任命され、江戸城で将軍宣下の儀式が行われる際に、藩主嫡子であった松平慶倫が登城する行列を描いたものとして、6枚の額に仕立てられた「将軍宣下二付御登城之図」と「将軍宣下之節御束帯御轅二而御登城御供立之図」という絵巻の2種、そして平常時の江戸登城の様子を描いた絵巻「江戸御登城并御平常御供立之図」です。
額装図を除いて、詳細な注記が施されていますが、平常時の江戸登城行列図では供の家臣は役職名のみで名前は記されていません。そのため、どの時期の行列を描いたものなのかは不明です。

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将軍宣下二付御登城之図  額全6枚のうちの2枚
行列:嘉永6年(1853)11月 作成:明治16年(1883)12月
 6枚の額を並べた全長11m余りの画面に描かれた行列図です。右端の先頭から左端の最後尾まで行列が1列に描かれ、左端の図の左下に作成に関わった西尾勝肥はじめ15名の氏名が記されています。
 描れているのは、嘉永6年11月23日、江戸城で将軍宣下の儀式が行われる際に、藩主嫡子であった松平慶倫が登城する行列ですが、本来は藩主の斉民も一緒に登城する予定でした。しかし、「疝癪気」(胸・腹・腰などが急にさしこんで痛む病気)うを理由に登城を断り、慶倫のみの登城となりました。この当時、慶倫は既に将軍への御目見えを済ませ、藩主後継者として公式に認められていました。平常の登城とは異なり、慶倫は束帯姿(公家の公式行事における正装)で輿に乗っています。これに合わせて、供の者たちも平時とは異なる衣裳に身を包んでいます。

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 左端の図の左上には「奉納」と大書されています。ほぼ同時期に作成された襖仕立ての「拾万石御加増後初御入国御供立之図」と同時に、おそらく愛山東照宮の社殿に奉納・掲示されたものと思われますが、具体的には明治4年(1871)の廃藩直後に急逝した慶倫の13回忌供養のために、この行列が選ばれて描かれたものと推測します。

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合羽籠の後方に見えるのは枠両掛と釣台で、いずれも小者たちの雨具を運んでいます。前者は手持ちで差す傘、後者は頭にかぶる笠を入れていますが、絵巻図では後者の釣台が見当たりません。


「将軍宣下之節御束帯御轅二而御登城御供立之図」

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熊毛槍                     金十字投鞘槍

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                        慶倫の輿

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供頭1          召替馬         慶倫の召馬

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(文:津山郷土博物館特別展「行列を組む武士たち-津山藩松平家の行列図より-」説明板より)(2016年10月16日撮影)