文化財めぐり(渓花院「於郷」)

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西寺町・渓花院跡(新高倉稲荷神社境内とその南東)
寺院としての渓花院の由緒:臨済宗東海派。山号は文献によって相違。
 渓花院の没後、元和初年に夫の関成次が亡き妻の菩提を弔うため、天倫を開祖として墓所の側に堂宇を建立。承応元年(1652)大名の待遇を得た次男の関長政により装飾が加えられ、長男で藩主の長継からは10人扶持を寄進。隠元が「渓花院」の3文字を大書した銅製の扁額もあったという。森家改易で関家が新見に移ると衰退し、無住となる。明治17年(1884)の時点で、境内は東西17間(約30m)・南北14間半(約20m)。明治末期に今の倉敷市連島辺りに移転したらしく、弥勒菩薩を本尊として本堂・庫裏・土蔵など630坪の境域と信徒300人を有し、岡山の国清水の末寺として亀島に渓花院という臨済宗妙心寺派の寺院が存在したとの記録があるが、その後に廃絶した模様で、その詳細は不明である。(矢吹正則『津山誌』・本源寺萬愚誌「森関宗廟由来記」・『浅口郡誌』参照)(2015年12月6日津山郷土博物館第107回文化財めぐり)

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渓花院(於郷):(文禄4~元和元[1595~1615])森忠政の娘、母は清泰院、兼山生まれ。いとこの関成次に嫁ぎ、長継・長政・衆之の三兄弟を出産するが、元和元年12月6日、わずか21歳で津山にて他界。法名は渓花院殿春嶽宗永大姉。夫の成次により、西寺町の墓所を取り込んで寺が開かれ、法名にちなみ渓花院と命名。後に津山藩主となった長継は、藩主の生母として改めて供養を思い立ち、新たに宗永寺を開き、ここにも供養墓を建立。(文化財めぐり)(系図津山郷土博物館作成)

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妙願寺:渓花院墓碑(移転した埋葬墓)
西寺町の渓花院が廃寺となった後の昭和初年、渓花院をはじめとする墓碑10数基が廃棄され、その中に妙願寺森家の一族の墓も含まれたため紛争となり、渓花院の墓碑など数基のみが大雄寺の本堂裏に移転されて残り、戦後さらに現在地に移転されたという。
(『歎異鈔に聞く会歴史部会 創立四十周年記念誌』参照)
※当寺には他にも妙向尼の画像・書簡(県重文)や森忠政書簡・庫裏・客殿(市重文)などの貴重な文化財が伝来。

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徳守神社:末社・高倉稲荷神社(旧渓花院内の鎮守)
嘉永元年(1848)初春に西今町の山手屋・江原市右衛門が、渓花院の鎮守および西寺町の守護神として祠を建立。故あって同3年9月に徳守神社の境内末社として移転された。なお、元の場所には翌年に祠が再建され、西今町の守護神として新高倉稲荷神社の名称で祀られている。(矢吹金一郎『徳守神社誌』・新高倉稲荷神社の案内板参照)