修倫館道場趾と四季
消えた武道場
昭和28年に全日本剣道連盟が組織され、武徳会が新しい姿となったが、剣道は終戦で一時ストップした。進駐軍が来るというので剣道用具をかくしたりしたこともある。しかし、別に禁止されたわけでもなく、学校が中止していたまでだが、一般の愛好者は鶴山公園で練習を続けていた。
それが自治体警察の発足によって表面的にとりあげられるようになり、津山にも募金で鶴山武道場が建設された。ここで柔剣道が復活したのは28年であった。ところが、市役所税務課の火災により、武道場が仮庁舎になったまま忘れられ、津山の剣道界では、これほど盛んになっている剣道への理解がないと大いに不満をもらしている。ムリもないことで、一般の武道場はない。柔道の貝田道場、剣道の修倫館は共に個人の建設になるものである。しかし、学校では体育館を活用、少年剣道教室も毎日曜日にひらかれたり、中学校では教科に入ってスポーツの一角に日本の伝統を生かしている。
修倫館道場趾の記念碑
2016年10月4日 2016年10月24日
剣道のメッカというのはオーバーかもしれないが、津山剣道連盟ほどガッチリとして先輩、後輩がスクラム組んでいるところも少ないといわれる。このみちでは全国的に知られ、夏季練習に来る大学が多いのも、先輩連がよく世話をするからだという。43年5月、作州の現役で初の八段範士になった定久寿元は大正2年からこのみちに入り、特に教育界に大きく貢献、自ら昭和32年に修倫館という道場を建設、青少年の育成を続けている。校長をながくつとめた坂田義一も五段教士、教育界に貢献した一人であろう。
2016年11月4日 2016年11月4日
国体優勝の鏡野高校は監督表江智舟、選手は藤田長久、鳥取冬紀、牧本英雄、久宗勇、益田真吾であった。このメンバーは全国高校大会でも優勝し、剣道鏡野の名を全国にとどろかしたものである。この藤田長久五段は国士館に進み、同校の主将になって大学の東西対抗でも東軍の主将をつとめた実力ナンバーワンの一人。津高の剣道部の教師として、43年には全国高校で津高はベスト・エイトに入っている。
また、教師の部の主将をつとめた田淵知好七段は、国立津山高専の教授をしており、43年の高専大会では津山は初優勝をとげた。
また、同年全日本学生剣道大会で優勝した関学の主将、神谷明文は、久米町の出身だが、津高を40年に卒業している。(文:発行所:津山朝日新聞社『作州から見た明治百年』から抜粋)
2016年11月4日修倫館道場趾から文化センターを望む 2016年12月15日撮影