荒神山城跡(市指定史跡)

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▲荒神山城跡(2011.5.14)手前はやまなみ街道です。(荒神山123番地の1)

荒神山城跡は、元亀(げんき)元年(1570)に宇喜多氏の武将花房職秀が築城し、わずか24年後の文禄3年(1594)には廃城となった短命な山城です。
 本丸を中心とした曲輪の配置は、連郭式と輪郭式の複合したものであり、枡形虎口の存在、瓦葺き建物の存在を示す大漁の瓦、大規模な井戸跡、本丸周辺に認められる石垣など、中世から近世への過渡期のいわゆる職豊系城郭の特徴を顕著に示しています。

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▲荒神山史跡略図               ▲荒神山城跡登りがけに杖があります。

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▲ここを登っていきますが、上品な猫ちゃんが出迎えてくれました。

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▲いのししが出るのでしょうね。         ▲若竹の色が綺麗です。

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▲ほどなく行くと、やっぱり檻が仕掛けてありました。

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▲比較的平坦な道が続きます。(途中には藤の花が咲いていました。)

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▲澤が綺麗ですよ!

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▲こんな岩盤があります。また、登る途中には石垣がいたるところにありました。

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比較的なだらかな坂です。

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▲緑いっぱい、森林浴いっぱい。爽やかな風とともに登る気持ちよさがたまりません。

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▲井戸の跡です。

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▲枡形虎口だそうです。

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▲頂上すぐ下です。

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▲本丸です。

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▲すぐ下は種です。

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▲すぐ下はやまなみ街道。           ▲とにかく爽やか!風を写したかったなぁ!

荒神山城跡
 荒神山城は美作国久米郡内にあった中世の山城で、現在の津山市荒神山にあたる。種から皿に抜ける谷間の道が東西に走っており、古くから重要な交通路であった。荒神山は、道の南側にあり横山から南下してくる道筋と東西の街道との交差点を見おろす位置になるため、まさしく交通の要衝を押さえた山城である。
 津山の城下町が形成される以前は、主要な東西交通路であったため、隠岐に向かう後醍醐天皇の一行もこの道を通ったと伝えられ、道筋には後醍醐天皇に関連した伝説や遺跡と伝えられる場所が所在する。
『備前軍記』によれば、元亀元年(1570)には人数を与えられた花房職秀は祝山の城に陣取って毛利勢と対峙しており、元亀2年(1571)には、荒神山の城にあって毛利勢と攻め合っていたが、兵力が不足していたため宇喜多直家から加勢が送り込まれている。その結果「此勢を以て同國皿山の城を攻」め落とし、毛利家より置かれていた武将肥田左馬助・高橋四郎兵衛らは討死したという。
 『美作古城史』に収録されている「花房家分限帳」には「元亀元年荒神山ノ城御築御入城被成事」とあり、花房職秀による元亀元年の築城とする。
 また、『かりがねの行方』に載せられている「荒神山 熊野神社 由歴書」によると元亀元年10月の築城で、文禄3年(1594)まで花房職秀が在城したとされる。
 これらから、築城の時期は元亀元年と考えてよいと思われる。この当時、備前の沼城主であった宇喜多直家は毛利と対立しており、毛利方に属していた佐良山城、院庄城、神楽尾城に対抗するために荒神山城を築いたとされる。
 その後、荒神山に在城した花房職秀は、天正3年(1575)正月には久世の寺畑城を攻めるために多田山に出陣、また天正7年(1579)には神楽尾城に在陣していた毛利方の大蔵甚兵衛・千馬三郎右衛門らと合戦に及んでいる。天正12年(1584)春には岩屋城を攻撃し、長期戦となっていたが、宇喜多方と毛利方の和議が成立したため、岩屋城は明け渡された。
 荒神山城跡本丸付近の平坦面には多数の瓦が残存しており、瓦葺きの建物の存在が推定される。また、城郭の全体構造は、本丸・二の丸・三の丸というように郭を線的に連ねて尾根上に配置する連郭式から、本丸・二の丸・三の丸がそれぞれ段差を付けながら本丸を中心に取り囲むように画的に配置される輪郭式への過渡期の状態を示しており、発達した大型の枡形遺構の存在などとも合わせて、近世城郭への移行期の山城と位置づけられている。
 『作陽誌』によれば、花房職秀は宇喜多家において7,000石を与えられていた足軽大将であったとされ、その配下には苔口宗十郎、難波弥九郎、河内七郎左衛門、柴田与一郎らの武将が属していた。そして、荒神山の麓の谷間には彼ら武将たちの居宅跡と伝えられる場所が残されている。
 花房は美作における宇喜多の拠点として荒神山城を守り、各地で戦功をあげていたが、後には、宇喜多家内部の抗争によって文禄3年(1594)に宇喜多家を去った。そのため荒神山城は廃城となり、その後新たな城主を迎えることはなかった。(文:『津山の文化財』より)