津山洋学資料館冬季企画展「美作地域の華岡門人」

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 2018年12月1日(土) 2019年2月24日(日)9:00 〜 17:00まで、津山洋学資料館 企画展示室で、冬季企画展「美作地域の華岡門人」が開かれています。


 紀州(現在の和歌山県)の医師華岡青洲は、1804(文化元)年、世界で初めての全身麻酔による乳癌摘出手術を成功させました。青洲のもとには、その医術を学ぼうと全国からたくさんの医師が集まりました。美作地域からも、記録に残っているだけで30人以上の医師が、青洲やその後裔たちのひらいた医塾に入門しています。本展では、華岡流の医術を学び、地域の医療に貢献した美作の医師たちについて紹介します。
 主な展示資料...「華岡流外科医術絵巻」、「横山香杏一代記録」、華岡流外科器具、「乳巖図」など約30点(文:洋学資料館HPより)


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 代々津山藩の藩医を勤めた久原家からは、玄順、宗哲、洪哉の3人が大阪の合水堂に入門しています。最後の藩医となった洪哉は、藩主夫人の乳がん摘出手術を成功させました。

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↑ 治療のお礼に藩主夫人から贈られた打掛     ↑ 華岡流の治療法を描く(江戸時代後期)
幕末~明治初年
洪哉の乳がん治療に対するお礼として、儀姫が久原家に贈った着物。松平家の葵の紋が入っています。銀鼠色に染められた絽(織目にすき間のある絹織物。夏用の着物として用いられた)に、金糸などで波間に群れ飛ぶ鵜が刺しゅうされています。


 華岡の医塾に学んだ津山藩医は、久原家だけではありません。芳村杏斎や柳原柳谿など、華岡塾で学んだのちに藩医に登用されている場合もありますが、特に幕末から明治の初年にかけて、代々津山藩医を勤める家系の医師たちが相次いで入門しています。
 1863年(文久3)年の井上元順、1866(慶応2)年の高畠立亭、1868(慶応4)年には、北山修斎、島崎栄順、渡邊貞順、野間栄斎、山辺正伯と5人も合水堂に入塾しました。いずれも、門人録の出身は「作州津山藩」となっています。
 修業の目的は外科だけでなく、「親灸」(鍼灸)の場合もあったようです。こうした動きの背景には、藩が高い医療技術を取り入れようとしたことなどが可能性として考えられます。
 津山藩の記録「国元日記」には、修業に出る藩医たちの様子が記録されています。

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青洲の門人が刊行した外科書『瘍科秘録』1837(天保8)年刊
華岡青洲の門人で、水戸藩医を勤めた本間玄調(1804~1872)が、青洲に学んだ外科や皮膚科の治療法を著したもの。巻一では乳がんについて「青洲翁が初めて麻沸湯という薬を組み立て、乳がんを截って治療した」とあります。

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↑ 山田家の庭に咲くチョウセンアサガオ     ↑ 往診の際に用いられた薬箱(明治時代)
  と山田純造肖像写真

山田純造 英田郡海田村(現 美作市海田)
1836(天保7)年~1916(大正5)年
1856(安政3)年4月 合水堂入塾
 
 海田で代々医家を営む山田家に生まれた純造は、金川(現在の岡山市)の医師難波抱節について外科を学び、21歳で大阪へ出て合水堂に入門。2年間の修業を終えて帰郷すると家業を継ぎ、弟の謙輔、俊平とともに地域の人たちの治療にあたりました。外科を得意として、他の医師から診察を依頼されることもありました。
 明治時代になると、通いの勤務医や医術を学ぶ修業生も加わって、山田家の医院「仙巖堂」には治療を求める人たちが津山一円や兵庫県周辺まで幅広い地域から集まりました。また、種痘の普及にも貢献しました。

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華岡流の特徴をもつ医療器具
華岡流の医療器具
江戸後期~明治時代 (山田家資料)

華岡流の特徴を持つ直剪刃、バヨネット型剪刃、医療用烙鉄、舌圧子、鉗子などの医療器具。山田家においても、様々な外科治療が行われていた様子を伝えています。


華岡流の乳がん摘出手術

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華岡流の乳がん摘出手術

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華岡流の乳がん摘出手術
 華岡青洲の名を世に広めたのは、麻沸散(通仙散)を用いての乳がん摘出手術でした。華岡家で行われた乳がんの手術の記録である「乳巖姓名録」には、1848(嘉永元)年11月までに155名の患者の氏名が記録されています。
 山田家に伝来した「乳巖図 全」には、患者の氏名と腫瘍の図が描かれています。冒頭に腫瘍が描かれているのは、「和州宇智郡五條駅藍屋利兵衛母」で、青洲の最初の乳がん手術を受けた女性勘です。
 勘と続く8名は「乳巖姓名録」にも名前があるため、ここまでの部分は華岡塾の手術と分かります。それ以降の9名は、最初に「難波立愿図」と書かれていて、いずれも備前、備中、美作の患者であることから、山田純造が師事した備前の医師 難波抱節が行った乳がん手術の可能性があります。抱節は1814(文化11)年に合水堂、続いて春林軒へ入塾し学んだ青洲の高弟です。

(文:津山洋学資料館パネルより〔一部修正〕)(2019年2月8日撮影)

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美作地域の華岡門人の案内チラシ

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津山洋学資料館で売られている素敵なお土産。