楢船着き場跡の常夜灯

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楢の常夜灯沿革 (津山市楢字下浜37番の2) 2011.6.14
 初代津山藩主森忠政は高瀬舟による吉井川の舟運を開いた。支流の加茂川においても、因幡往還との接点である楢村に舟着き場を設けて年貢米等の積み出しの便を図った。施設は石雁木、荷揚げ場、米置き場、詰所、などがあった。建設に当たっては護岸に川石を用いず、近くの鷹山の中腹の岩石を切り出して石積みを行った。
 楢村が幕領に移されてからも、川湊としての機能はますます重視された。勝北地域の幕領の年貢米の積み下げの重要な河岸とされ、吉井川流域では最も多く積み出した。
 諸物資の流通もまた盛んになり、楢村は周辺地域の物資の集散地として多くの人々で賑わった。因幡往還の両側に日用雑貨や食べ物の店などが並んで在町を形成し、大商い・小商いの商業活動が活発に行われ、やがて、大商いは城下の商業と競合するまでになった。
 また、舟運による情報や文化の流入、商業活動の活発化等は村人の意識に多大の影響を与えた。商業活動の確保や米置き場問題、化政期からの私塾経営等特徴ある活動が行われている。
 文化元年、津山藩領に編入時、楢村の商業活動は曲折の後藩から追認され、以後明治にいたるまで楢村は在町として発展を続けた。
 幕領時支配の変更のたびごとに発生した米置き場問題も、楢村が津山藩に編入された際には困難を極め、ついに訴訟するに至った。そして、文政11年になってやっと解決した。
 天保9年、村人はこれらの問題の解決を喜び、村のいっそうの発展を願って常夜灯を建設した。こも銘文から建設の寄付集めや諸世話・石集めから石工にいたるまで、村を挙げての取り組みであったことが伺える。

(文:多胡益治さん)

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▲案内してくださったのは、多胡益治さんです。

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指定理由
 江戸時代高瀬舟の舟運による物資の輸送は、内陸にある津山城下町の生活に不可欠の交通手段であった。しかし、現在では吉井川流域の舟運の遺構は殆ど失われている。
 楢の船着場跡は幸いにして当時のままの状況がかなり残されており、ことに、吉井川水系で他に見られない高灯篭型の常夜灯は、吉井川舟運の研究誌等に写真が数多く取り上げられている貴重な遺構である。 

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現状
 明治初年には存在が文章で確認されている往時の「石雁木」や「共同荷揚げ場」は国道(現在の市道)桜橋の架橋やその後の護岸の改修により失われているが、常夜灯とかなりの護岸の石積みが無傷に近い状態で残っている。ことに水刎ねの石組みの上に勾配を持った高石垣を築き、その上に据えられた常夜灯は当時のままで、やや無骨ではあるが堅牢かつ雄大である。

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常夜灯
名称 楢船着き場跡の常夜灯
種別 史跡

員数 1基(基礎高石崖を含む)
所在地 津山市楢字下浜37番の2
品質及び形状 石造(花崗岩)、常夜灯とその基礎石崖(高灯篭)
寸法 高灯篭高5.87m(基礎石崖2.75m、常夜灯高3.07m) 
   基礎高石崖上面m1.85×1.64m、下西面3.20m
作者 北田申兵衛(楢村住人)
製作の年代 常夜灯 天保9年(1838)
常夜灯の銘文
 天照皇大神宮、金比羅大権現、中山大神宮、木山午頭大王 
 金一両 勝上村 流郷十郎左衛門、同 吉左衛門 同 城山村 高山田作
 銀一枚 野村 保田市右衛門、同 平兵衛
 金二分 平村 福島秀蔵 
 金一両 当邑 百助、同一両二分 亦兵衛、同 ○七
 併 八方施主 石寄 諸世話 若連中
 世話人 中矢仙蔵、同 正平
 天保九戌年六月
 当村住 石工 北田申兵衛 作