棟方志功作品の展示が新たになりました。
板画、倭絵、油絵、書のほかに、志功から柳井道弘あての手紙やハガキ類も新たなものを紹介しています。さらに、裏彩色の技法を直に見てもらえる展示も行われています。〔文:棟方志功・柳井道弘記念館(M&Y記念館)〕2015年3月7日取材
板画、倭絵、油絵、書のほかに、志功から柳井道弘あての手紙やハガキ類も新たなものを紹介しています。さらに、裏彩色の技法を直に見てもらえる展示も行われています。〔文:棟方志功・柳井道弘記念館(M&Y記念館)〕2015年3月7日取材
山本神社(高野山西)2015年1月25日取材
山本神社は昭和14年11月吉日 山本繁俊さんが建てたもので個人所有のものです。
山本さんのご親戚の方がお掃除などをされていて、今でも年一回お祭りをしていらっしゃるそうです。
旧因幡往来が加茂川を渡るところに桜橋がある。楢部落の入り口である。楢部落は古くから物資の集散地として栄えていたところである。
桜橋を東に渡ると川岸に立派な石垣の高燈籠がある。かつて川船の出入りしていた川船港である。加茂川の川船港としては終点である。
森藩時代は加茂の小中原まで舟が通じていたが、松平藩の時代になり、加茂谷が天領となったので舟運は衰えている。しかし、いかだなどは通じていたようである。この港からは、川下に向かって木材、木炭、米、豆、綿、紙、油、川魚、鉄などが運ばれていた。もちろん旅人も利用している。
牛の墓
しづな坂の東ののぼり口のところに、三基の大日如来の碑が立っています。大日如来は、仏教の世界でいちばん高い位の仏さまですから、宇宙をつかさどる仏さまをまつっているように見えますが、これは牛の墓なのです。
むかしの農家では、牛は、田んぼをたがやす力もちでしたから、家族のひとりのようにたいせつに飼っていました。たいていの農家では「うちやま」といって母屋の中で飼っていました。
沼遺跡と弥生の里文化財センター
沼遺跡は、弥生時代のムラの遺跡です。昭和26年(1951)の夏に道路の法面に竪穴式住居の断面があることが明かになり、遺跡があることがわかりました。翌昭和27年から昭和49(1974)年にかけて何回かの発掘調査が行われ、竪穴式住居址5軒、建物址3軒などの遺構が見つかっています。また、昭和30年(1955)には竪穴式住居が現地に復元され、歴史学習のための史跡公園として整備されました。
高野山西にある白滝様は、地元の方からお聞きすると「この地区で、戦後いろんなことが起きて地元の人が集まって建てたと聞いている。今でも、5軒ほどで春と秋にみんなで集まってお祭りをしています。回り当番制で、当番の人がお掃除をして、掃除が終わったら、当番さんの家で親睦を図っています。」とのことでした。由緒沿革は定かではないそうです。( 2014年7月3日取材)
美作の丘附近の祠(取材2014年7月3日)これは個人がお祭りされているものだそうです。
高野山西の山の中腹に、地元の人が観音様と呼ぶ建物があるとお聞きし、行って来ました。
建物は古くなり、お参りする人もほとんどないのですが、「何とかしないと。」と地元の方たちが相談している所だそうです。(2015年3月1日取材)
高野山西にある夏目荒神社(2014年7月3日取材)
地元の人に伺うと、この荒神様の祭礼は今はしていないとのことでした。(昔は年に4回祭りをしていたそうです。)また、残念なことに由緒沿革も解らないそうです。現在は地元の人達32軒程がお祓いをされているそうです。
金比羅様(2014年7月3日取材)
山西地区の南の道のそばに、大きな石の燈籠ががあります。その西の丘の上には、金比羅様がおまつりしてあります。
金比羅様といえば、四国讃岐の金比羅様が本社で、有名なお宮です。各地に、山西にあるような金比羅様がまつられています。この地方では、加茂の金比羅様が有名ですが、広野にも、河辺にもあります。