浮世絵ー役者絵あれこれー
つやまギャラリーⅢ2015年2月1日くらやアートホールにて津山市教育委員会主催の「浮世絵ー役者絵あれこれー」美作出身の医家が収集した浮世絵の中から、歌舞伎役者を描いた「役者絵」を展示。津山初公開のものを中心に選ばれたそうです。
国貞
歌川国貞は江戸後期から幕末にかけて活躍した浮世絵師で、初代歌川豊国の門人です。五渡亭、香蝶楼、一雄斎、浮世又平、不器用又平など数多くの号を使いました。作画期間が長く、膨大な量の作品を残しています。
つやまギャラリーⅢ2015年2月1日くらやアートホールにて津山市教育委員会主催の「浮世絵ー役者絵あれこれー」美作出身の医家が収集した浮世絵の中から、歌舞伎役者を描いた「役者絵」を展示。津山初公開のものを中心に選ばれたそうです。
国貞
歌川国貞は江戸後期から幕末にかけて活躍した浮世絵師で、初代歌川豊国の門人です。五渡亭、香蝶楼、一雄斎、浮世又平、不器用又平など数多くの号を使いました。作画期間が長く、膨大な量の作品を残しています。
下押入の県道兼田上横野線の山西境のところに、元禄年間(1688~1704)に、つくられた花崗岩の道標が立っています。(字建石)
この道標は、東はいなば道、西は加茂道と書いてあります。東はいなば道はわかりますが、西加茂道というのは、」ちょっとふしぎな気持ちがします。西は、津山城下の方角だからです。
よくしらべてみると、道標の西の方、鹿の子橋の手前で、北に行く古い道があります。
飯綱神社(津山市高野押入)
『美作國神社資料』には、「苫田郡高野村大字押入字下押入 村社 飯綱神社 祭神 倉稲魂命 祭日 例祭 十月二十日 社殿 本殿 神楽殿 氏子戸数 六拾戸 境内神社 尾鼻神社 祭神 高龗神命 由緒沿革不詳」とあります。
近長代官屋敷跡(近長)
堀坂村や田熊村を含む吉野・勝北2郡のうちの1万9千石は、1747(延享4)年から常陸国土浦藩(現在の茨城県土浦市)の藩主・土屋家の領地となりました。
最初は吉野郡下町村(現在の美作市大原町)に役所が置かれましたが、1790(寛政2)年、吉野郡1万石が没収され、近長へ陣屋を移しました。
その後、廃藩置県が行われるまで、120年以上にわたって土屋氏によって治められており、村民との関わりも、他の飛び地と比べて深かったとされています。(文:津山洋学資料館友の会 第26回史跡見学会津山に残る和算家の足跡を訪ねてより)2014年10月8日取材
「北 順佑全国プロデビュー3周年記念ピアノリサイタルin Japan」が、2015年1月18日(日)津山市大田にあるモンレーヴで行われました。(賛助出演:津山市在住の笑顔のダウン症ピアニスト 川嶋 絢さん)
2015年1月6日(火)~2015年1月8日(木)「作州絣保存会」作品展が津山市新魚町のアルネ・津山4階市立文化展示ホールであり、最終日の1月8日取材してきました。
作州(美作國)にて織られていた手織り作州絣を、この地に伝えてゆきたいという思いから、平成24年に「織り人養成講座」を開講して3年を迎えた保存会の皆さんが、初めての作品展を開催されました。
2015年2月1日のイナバ化粧品店内です。もう、2月になってしまいました。
昔のことわざに、 「1月は行く、2月は逃げる、3 月は去る」と申しますが、本当に月日の経つのは早いものですね。いつも元気はつらつイナバママと「はい!ビーズ!」
小野のお通
江戸時代のはじめのころのことです。
高野押入村に、女の子が生まれました。名をお通といいました。小野は、母方の姓です。
お通は5才で、和歌をよみました。10才になると、布を織ることをおぼえ、12才で、むずかしい漢学の本がよめるようになりました。
そのうえ、とても美しい娘だったので、美作の国中で評判になりました。
16才になったときうわさを聞いた都のお金持ちが、およめにほしいともうしこみました。お通は気がすすまないようすでしたが、およめにいくことがきまりました。
高野田んぼのまん中に、一本の大きなアカメヤナギが立っていました。この木は、遠くからでもながめることができ、古くから人々にしたしまれている名木でした。(2014年伐採)
この木の根元には、才の神さまがまつられています。才の神は、村人を悪魔や病気などのわざわいから守ってくれる神さまです。おそろしい伝染病などをふせいでもらえると信じられていました。才の神は、まった、旅の安全を守ってくれる神さまでもありました。
源四橋
因幡往来が、下押入の古川をまたぐところに、源四橋がかかっています。この橋には、人の名前がつけられています。
江戸時代のおわりごろ、野村に、保田源四郎という人がいました。そうとうなお金持ちだったのですが、子どもができなかったそうです。
源四郎さんは、のちのちまで人々のやくにたつことをしておきたいと考えました。そこで、旅人の安全を考えて、下押入から野村までの因幡往来に、七つの石の橋を自分のお金でかけたといわれています。