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明治27年(1894)美作津山市街図

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明治27年(1894)美作津山市街図  津山郷土博物館所蔵


明治二十四年八月御届、出版、仝二七年七月訂正出版
明治24年1月調 ・東西町数 二町、 仝 大字 四十三 ◎津山西町 戸数二千四百二十七戸、人口一万一千零七十二人 ◎津山東町 戸数 七百五十八戸、 人口 三千四百五十五人

(2014年7月30日取材)

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長昌山 妙法寺の桜がきれいでした。

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長昌山 妙法寺本堂の前に植えてある枝垂桜です。(2015年4月9日~取材)

 現在の妙法寺本堂は、県の重要文化財に指定されており、正面5間(16.9m)側面(18m)の大きな平面を持った堂宇である。鬼瓦の側面の記載により1653年頃の完成と思われる。他に市の重要文化財に指定されている鰐口がある。

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カラスガイつり(高野山西)

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 湿田の中でも、山西の西がわの低い山の間の棚田は雨が降ると水であふれ、その水が「あと口」から流れ出てはつぎつぎに下の田に落ちます。そのたびに水の落ちた所が土をおし流し少し深くほれてきます。そこを「あと下」とか「あとあな」と言いました。そのくぼみにはいつもフナやドジョウが集まるので、手あみやソウキを持ってとりに行ったものです。またそこには、カラスガイが生まれ、住みつきここで大きくなり、ときには10センチ以上にもなりました。そのカラスガイをつるのもとくべつの楽しみでした。

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岡山県立津山高等学校(岡山県立津山高等女学校)の今昔

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消えゆく山下校舎 1962(昭和37)年  ≪岡山県立津山高等女学校、岡山県立津山女子高等学校、岡山県立津山成美高等学校、山下校舎≫

 1903(明治36)年の女学校開校以来、戦後の女子高等学校山下校舎と、美作の女子中等教育に大きく貢献したこれらの建物は、椿高下新校舎の完成を以て幕を閉じることとなった。
(資料提供:岡山県立津山高等学校)

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今(2015)から約20年~80年前の津山市内の様子

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今から約80年前(昭和10年頃)の岡山県立津山高等女学校
 この地は津山城の外堀の一郭で南東には京橋御門があった由緒深い土地で、建物は昭和7年に完成し、而立館と命名されたが昭和36年同窓会館と改名一棟のみ残されています。

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山西ドジョウ(高野山西)

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 ドジョウは淡水産の小魚で、うなぎのような形をしています。大きいもので20センチ。口にひげがあり、味はあっさりして脂肪が少なくビタミンAが多い。
 水の浅い底がどろのところに住み、危険を感じると水をにごらせてどろの中にかくれます。雨の前には水中からうき上がりぽつりと空気をはき、また空気をすって腸まで送る腸呼吸ををするおもしろい魚です。
 ドジョは流れの少ないどろ土の深い所、ちょうど湿田のようなところがぴったりでした。ここはドジョウのいちばんのすみかです。

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藤の棚橋(ふじのたなはし)(福田)

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 藤の棚橋は、昭和2年(1927)3月建設。旧国道53号(市道佐良山181号線)沿いに皿川に架かる長さ24.3mのRC桁橋である。国道は幅員を広げるため、橋を含む250mほどの区間が東側に新設・移行され、現在では近隣住民が利用するのみとなっている。親柱や束柱には桃色花崗岩の万成石が使用され、アールデコ風のデザインが施されている。橋脚は昭和初期らしい華奢な印象の形状で、架橋当時のままである。高欄の大きな開口部には鋳鉄グリルがはめ込まれていたそうだが、現在は戦時中に供出された痕が痛々しく残るのみである。(文:岡山県の近代化遺産より)

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楢村の稲荷様(楢)

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 稲荷大明神を祭った社が鷹(高)山にあり「稲荷様」と呼んで楢村の商売繁盛の神として村の人たちに敬われていた。山の北面中腹に岩倉を背にして社がつくられ、西側の近長道から鳥居をくぐった参道が右折して2,3段の石段を上がるともう一つの鳥居がある。そこから15.6mの石段を上ったところに社がある。

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統合井堰(草加部)

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 成名地区は加茂川が平野になる扇状地の要のところに位置している。
加茂川にはたくさんの井堰があり上流からいえば桜橋の上手の野村井堰、桜橋下流にあった牛の子井堰、本郷橋の上手にあった福井井堰など多くの井堰がありましたが、昭和50年頃どの井堰も全部取り除き龍ヶ爪のところに統合井堰が作られ、津山市上水道に一日2万5千トンの水を分水してこの統合井堰から津山市東部地区の上水道用の水を取水するようになりました。この取水ができるまでには、多くの関係者の知恵と多額の費用がかかりましたが、5つの井堰(野村、福井、牛の子、才勝、大井手)の農業用水路は地下方式(パイプライン化)となり、各田んぼでいつでも水が取れるようになり、大変便利になりました。(文参考:むかし高野)2015年3月16日、4月2日取材

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