『津山に残るなつかしの映画チラシ』展(後半)
昭和20年代、河野磐さんが津山市民に映画を告知するため描いた映画ポスターもお借りして飾っています。
昭和20年代、河野磐さんが津山市民に映画を告知するため描いた映画ポスターもお借りして飾っています。
徳守神社 神徳の碑 (2015年5月2日取材)
徳守神社境内の北やや西よりに、末社の大国主神社がありますがその東隣りに円筒型の石碑がたてられています。この石碑に「県社徳守神社御神徳碑」と刻まれています。これは明治19年のこと、境内に土砂を入れてローラーでかためる作業が行われていましたが、当時の小田中村新田(今の小田中神田)の立石良次郎という人が、ローラー作業をしながら陰陽二柱神社の前に差し掛かった頃、誤って転倒しローラーの下敷きになりました。骨が砕け命を失うかと思われましたが、不思議なことに、身体が土中に埋もれ、かすり傷1つ負わなかったそうです。人々は皆、神様のご加護と感動し、このローラーの石を他に使うことを止め、徳守の大神様の神徳を称える碑として建てられたということです。(文:津山城西の秘密のお宝が大集合より)
蓋がされ道路として使用されている神田川と嵯峨水路の合流地点付近に有る西条柿の木の根本に包まれて僅かばかりが見えていたのですが、現在は新しく全体が見えるようになっています。昔から通称賽の神様と呼ばれ地元神田に入ってくる災難や疫病を払う儀式の場所として、お正月のとんど焼きや盆の仏送りの場所としても使用されていました。また同じ場所に一ノ宮方面への道順を示す道標も埋まっています。(文:津山城西の秘密のお宝が大集合より)(2015年5月9日取材)
今年もスペインより帰ってまいりましたので皆様とお会いできるのを楽しみにしております。どうぞお出かけくださいませ。お待ちしております。(2015年5月10日)
2015年5月10日のイナバママとスタッフの皆さん。「本当に皆さんに感謝です。」とイナバママ
母の日全国から届いた花束の数々にイナバままも嬉しそうでした。勿論浩志さんからも届いてました。
新屋敷 ベンチュリー(量水器)室
新屋敷から安岡町へ(旧道)出る短いトンネルの入口の手前北側に周囲を囲った小さな建物がある。水道の施設であることは、聞いているが...。浄水場の井汲場長にお聞きした。
昭和9年第1配水池から市内への流水量を知るためのベンチュリー(量水器)が設置された。現在は電磁流量計となったのでベンチュリーは使用していないとのこと。でも姿形は当時のままで、流量計室として、今でも使用されている。(文:津山城西の秘密のお宝が大集合より)
神田 旧徳守神社跡地と徳守塚 (2015年5月2日取材)
その昔、徳守と言う名前の徳の高い人が、旧小田中村で行き倒れとなり、近隣の小原家の先祖が手厚く看病したが、看病の甲斐無く亡くなってしまった。そこで小原家が徳守塚として祠を作り埋葬したとされています。その場所のほど近く現在は宮脇町にある徳守神社が祭られました。この場所は現在の神田公会堂東側の竹藪の中で、森忠政が津山の総鎮守として現在の位置に移るまで祭られました。(文:津山城西の秘密のお宝が大集合より)
新屋敷 薮の鼻のお大師様
新屋敷あたりは昔竹薮が多く、その鼻先(前)薮の鼻となったようだ。その薮の鼻にあるお大師堂は寺町の愛染寺の奥の院であり、1605年金剛寺(岡山市)より畠山快雲が美作の地に来て薮の鼻に庵を建てた。その後に快雲により愛染寺が建立された。又、大師堂境内入ってすぐ右側には上浜恵海尼についての碑がある。現在のお大師堂は3回目の建て替えで新しい。毎月20日に愛染寺の住職、信徒による法会が行われる以前はお遍路さんがよく参ってこられていた。現在でも参ってこられますとのこと。(文:津山城西の秘密のお宝が大集合より)
神田 神田荒神様 (2015年5月2日取材)
神田荒神様の場所は、神田公会堂屋敷内の西にある。
7月12日夏祭り、10月12日秋祭り、毎年老人会主催で徳守神社の神官をお招き、祭礼を行っている。(文:津山城西の秘密のお宝が大集合より)
国府台寺の前にあるお宅の花壇に色とりどりの花を咲かせるシャクナゲ。
とてもかわいかったので、許可を頂き写真を撮らせていただきました。(2015年5月3日)