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鶴山館(鶴山公園内)

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 これは津山藩の学問所(文学所)として1870年(明治3年)に着工されました。場所は京町門の内側にそれまでにあった文武けいこ場の東側(現在の津山電報電話局のところ)で、翌1871年に完成され、従来のけいこ場とあわせて「修道館」と名づけられました。この時期は同年7月に行われた廃藩置県の直前であり、明治維新のあととはいってもまだ藩内の教育については藩が統轄しているときでした。
 しかしその後、明治政府は廃藩置県を行うことによって全国に統一した行政が行える体制ができ、文部省を設けたり、1872年には学制を制定(学区制、就学奨励)したりして、近代教育制度を発展させていきました。修道館はこのような事情から完成して間もなく廃藩置県にもとづいて廃止され、のちの"鶴山館"にあたる建物は変遷する教育制度などと深くかかわりながら利用されてきました。それはだいたい次のとおりです。

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津山城・津山の城下町

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津山城
 津山城は1604年(慶長9年)に着手され、13年後の1616年(元和2年)に完成しました。
 この場所は鶴山を中心とする一帯で、藩主にとっては城下町をつくり、常備軍をひざもとにおいて不意の戦争に備え、農民に対して武士の力強さを誇示できると同時に、藩内の統治にもっとも便利な場所として選定されたものと考えられます。
 形式は丘陵とそのふもとをとりいれた平山城で、縄張(郭.堀.城壁.虎口等の配置規模を決めること)は巧妙で、また施設も堅固にできており、本丸を守るためにとてもよく考えてつくられています。
 山頂に本丸を定め、その西部か堅固な石垣で区切って、ここを天守曲輪とし、中央に五層の天守閣が設けられています。その東側と本丸を東北に向けて強く張り出させたところには特に髙い石垣を築いて櫓を点在させています。また、北側の急斜面はこれを利用して坊塁を築き、東側のがけは急な勾配で宮川に面しているので、そのまま防備に利用されています。

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第22回つやまロボットコンテスト国際大会

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 2017年12月17日 10:00~「第22回つやまロボットコンテスト国際大会 決めろシュート!!アイスホッケーロボコン」が津山総合体育館で開催されました。
 今年のロボコンはアイスホッケーをテーマにロボットが相手ゴールへパックを決めて得点を競うロボコンです。
今大会はタイ、オーストラリアの二か国の高校生が、姉妹校である津山高専と呉高専の生徒とタッグを組み参加しました。

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DD16形ディーゼル機関車

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DD16形ディーゼル機関車
 軌道構造の弱い簡易線に投入する機関車は、軸重が12トン以内に制限されている。そのためDD13形やDE10形を入線させることができなかった。そこで、C56形など軽軸重蒸気機関車と置き換えるために開発されたのが、全長12mのDD16形である。DD51形初期形のエンジンDML61形を出力800PS/1,330rpmに抑え、最高速度を75km/hとした。25km/hで走行した場合、10‰で約400トン、25‰170トン、33‰では100トンの牽引が可能である。1972(昭和47)年から1974年の間に65両製造され、大糸線を皮切りに、四国を除く全国に配置された。そのうちの4両は1979(昭和54)年から1983年にかけて除雪用に改造され300番台となり、飯山線と大糸線で使用された。DD16-304は2015(平成27)年8月、金沢総合車両所から津山に来た。(2016年7月24日、11月1日撮影)

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DE50形ディーゼル機関車

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 1970年(昭和45年)に国鉄が日立製作所笠戸工場にて製造したディーゼル機関車です。 本形式は津山扇形機関車庫に保管される1両しか製造されていません。
 当時既に大量配備されていたDD51はディーゼル機関を2基搭載することによる 保守費用の増加の問題を抱えいた他、重量の問題で支線区での運用にも制限がありました。 また、支線区用として開発されたDE10は出力が小さく、速度面の問題がありました。 これらの問題を解決するため、 "DD51の代替・後継となり得る出力"と"DE10のように 支線等でも運用できる重量及び高い保守性"を両立した、 最強の純国産ディーゼル機関車の開発がスタートしました。そして誕生したのがこのDE50です。

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嵯峨山の夕日

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 2018年1月2日の美しい夕日です。
久米の佐良山については作陽誌に
「佐良山付古城 在中島村倭歌の詠ずるところの久米の佐良山はこれなり。一名嵯峨山と名づく。或人は言う、篠山と嵯峨山とは相去ること遠からず。何れがその佐良山たるかを詳しくせず。しかも篠山は佐良山村に在り、嵯峨山は中島村在る。佐良山に在るを以って真となすべきと言う。この説は是ならず。古は中島村、古城村、暮田村、佐良村は一村なり。総べてこれを佐良村と言う。近来邑里分割し山川の隋判は其原を詳しくせず、これに疑有り。今山上を縦目するに、風景は嵯峨山を勝となす。真の名山はただこの山なるかと記されている。

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2018 津山消防出初式

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2018年1月7日(曇り)午前10時から津山市内の消防ポンプ約100台と赤バイが勢ぞろいした中、津山消防出初式が吉井川河岸緑地公園(観覧は北岸)でありました。一斉放水が予定より遅れて行われました。今年は一般の見物客の方が増えていたように思われました。また、この日は午後から全国サッカー選手権大会で地元の作陽高校女子サッカーチームの決勝戦があり、見事準優勝に輝いたおめでたい日と重なりました。(2018年1月7日撮影)

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天守にある「常用の井戸」

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お城の井戸
 雨上がりの津山城跡を訪れた時、石垣から大量の水が噴き出しているのを見かけた。その場所は裏中門南桝形南面の石垣である。津山城跡の中で唯一岩盤が観察される場所である。北斜面の地形を削平し桝形を造出しているが、この時、南石垣面で高さ約1メートル程度にわたり岩盤が削り取られている。石垣はこの岩盤の上に直接積まれており、地下に浸透した雨水はこの岩盤面をつたって石垣から噴き出していたのである。これを見て、丘陵の頂部に位置する本丸の井戸にも水が溜まるということが理解できた。

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津山藩の学問世話掛かり鞍懸寅二郎

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  幕末、津山藩と幕府や朝廷の間で活躍した武士の一人に、鞍懸寅二郎がいます。
 寅二郎は赤穂藩(兵庫県)の出身でしたが、若いとき江戸で儒学を学び、津山藩の学問世話掛かりとなり、幕府や他の藩との交渉役などをつとめました。また改政一揆では、民衆の説得に当たり、一揆をしずめました。
 明治になり、徳川の親戚である津山藩は、朝廷の敵とみられましたが、寅二郎は藩内をまとめ、津山藩が新政府に従うことを、政府や周りの藩に伝えました。
 その後寅二郎は、藩の代表として活躍する一方、政府の役人として、廃藩置県などの仕事を進めていましたが、1871年、津山で何者かに殺されました。

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全国に知られた富豪「蔵合家」

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全国に知られた富豪「蔵合家」
 二階町をはじめ津山の城下町の成り立ちに深いかかわりをもったと思われる「蔵合家」について。
西側の家並の中で、現在の日専連ビルから北の中央病院の寮(旧電々局合)まで、二階町の表通りに面して日専連ビル、美作印刷、津山郵便局、津山中央病院寮が並んでいるが、江戸時代には蔵合家がここに居を構えていた。
「津山惣町改町」の二階町の項に、南から「西へ通る横丁あり。蔵合孫左衛門=表口23間、奥行17間、京町塩谷新兵衛持ち屋=表口4間半、奥行17間、白銀屋久兵衛=表口7間、奥行17間。西へ通る横丁あり」と記される。南の「西へ通る横丁あり」は日専連ビルの南側の通りで「馬方町」ともいわれる。次の「横町あり」は中央病院横で「八百屋町」と呼ばれていた通り。ともに舗装の下に元禄期の小路がそのまま息づく。
現在も家数は少ないが、元禄10年はわずかに3軒である。大半を「蔵合孫左衛門」の家で占め、表口は23間(約41㍍)である。

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