旧津山扇形機関車庫 「津山鉄道遺産2」
津山扇形機関車庫トップ 津山鉄道ミニガイド 津山鉄道史 津山鉄道遺産1 津山鉄道遺産2 鉄道資産について 津山扇形機関車庫(機関庫)とDE50-1 (2007年取材) |
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津山扇形機関車庫 ●2007年秋からは、キハ58、キハ28の2両のディーゼルカー(みまさかスローライフ列車)が加わる。 |
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津山扇形機関車庫 ●2007年秋からは、キハ58、キハ28の2両のディーゼルカー(みまさかスローライフ列車)が加わる。 |
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このページでは、津山で見ることができる鉄道関係の近代化遺産を紹介しましょう。
近代化遺産とは、幕末期から第2次世界大戦終了時にかけて、近代的手法によって建てられた産業・交通・土木等にかかわる建築物のことを言います。津山市に は城東むかし町屋、あけぼの旅館、作州民芸館をはじめとして58の近代化遺産があります。その中で鉄道に関係するものは19です。
これらは津山の町の発展とともに生まれ、発展を支えてきた歴史の証人であり文化遺産です。そして今では津山の景観に溶け込み、私たちの心に素敵な風景として定着しているものばかりです。
「いやー、津山って本当にいいところですね」・・・みなさんも津山の鉄道に乗って四季折々の素敵な風景を楽しんでみませんか。(参考文献:「岡山県の近代化遺産」岡山県文化財保護協会発行)
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2016年4月リニューアルオープンした津山まなびの鉄道館(旧津山扇形機関車庫)行って来ました。 扇形機関車庫には、新たに収蔵された蒸気機関車「D51 2」をはじめ、日本に1両しかないDE50形ディーゼル機関車「DE50 1」など計13両が展示されています。8年前にも取材しておりますが、年々整備されて綺麗な姿になっていて嬉しくなりますね。(2016年4月5日~8日撮影)
旧津山扇形機関車庫
旧津山扇形機関車庫は延床面積2,527㎡、総工費は11万600円であった。機関車収容線数17は、梅小路機関車庫に次ぐ現存二番目の規模である。躯体は鉄筋コンクリート・フラットスラブ構造で、向かって右の低棟には道具置場、技工長室、修繕室、鍛治場が置かれ、高棟は第1から第4、中棟には第5から第17の機関車収容線が敷かれていた。
屋根高は低棟6,700mm、高棟8,450mm、中棟7,303mmで、第5線と第6線、第11線と第12線の間にはエキスパンションジョントがある。ジョイント部分で中棟は高棟に、高棟は低棟に乗りかかるように設計
されている。エキスパンの役割は温度によるコンクリートの伸縮や地震による揺れの違いを吸収し、巨大コンクリート建造物を崩壊から防ぐことにあると考えられる。背面が広いガラス窓で覆っているのは、黒い蒸気機関車と煤煙によって暗くなりがちな庫内に自然光を取り入れるためである。それが扇形機関車庫の特徴である。
旧津山扇形機関車庫60ft転車台転車台桁は横枕木仕様でクーパー荷重E33、全長18,280mmの60ft下路プレートガーダ「G2-1」である。転車台は扇形機関車庫が建設される6年前の1930年、電動牽引機と共に設置された。現在の二輪式転車台電動牽引機は1954(昭和29)年に福島製作所が製造したものである。
岡山県「津山まなびの鉄道館」の内覧会開催に行って来ました。(2016年3月30日撮影)
津山まなびの鉄道館は、わが国に現存する扇形機関車庫の中で2番目の規模をほこる「旧津山扇形機関車庫」や収蔵車両を中心とするさまざまな展示と憩いの施設で構成されています。
この津山の地に遺る、価値ある鉄道遺産を後世にしっかりと伝えていくこととともに、私たちの暮らしに深くかかわっている鉄道の成り立ち、社会や地域とともに発展してきた鉄道のあゆみ、しくみの変遷についてご紹介し、特に、これから将来を担っていく小・中学生など若い世代の皆さまに、鉄道に対し一層の理解を深めていただくことを目的としています。
ぜひここで楽しく学んでいただき、新たな発見をしていただくことを願っています。(文:JR西日本パンフレットより)
2016年3月31日(木)イナバ化粧品店に伺ってきました。早いもので3月も終わり4月のお花見の季節になってしまいました。今年は全国的にさくらの花も早めに咲いていますが、ここ津山市も既に咲いております。また、イナバ化粧品店内も可愛いキューピーがいて春が来たようです。ところで、この5レンジャーはなんという名前の5レンジャーでしょうか?
2016年4月1日(金)は「津山さくらまつり2016」のオープニングセレモニーの日ですが、今年も雨になってしまいました。小降りだったのがだんだん大降りになってしまいましたが、津山情緒保存会のみなさんの艶やかな踊りに会場内は華やいでいました。今年は、盛りだくさんのイベントがありますよ!
踊りの様子は→(こちらでどうぞ!)
津山城への闖入者(ちんにゅうしゃ)
城の警備は厳重を極め、不審者が入り込むことなどあり得ないというのが、一般的な城に対するイメージでしょう。確かに、城への出入りは簡単ではないですが、町人や農民からは全く隔絶した場所というわけではなく、さまざま人々が通行手形を得て、日常的に出入りしていました。そんな場所ですから、ときには不思議な事件も起きるのです。では、京橋門の番人の報告から、ちょっとした騒ぎのようすを見てみましょう。
文化元年(1804)の8月17日、昼過ぎのことでした。京橋門の番人二人は不審な人物を目にして、声をかけました。その男は、単の着物を身につけ、尻をからげて鉢巻をしていました。そして、手には白木の箱を持っていました。ふだんだと京橋門は、城内の武家屋敷への用事で入る者も多く、厳しい監視はしていないのですが、このときばかりは少し気になったというのです。
高瀬舟とみなと町津山
高瀬舟を使って吉井川を上下する輸送は、江戸時代になる前から行われていましたが、城下町津山の発展に、高瀬舟の活躍は欠かせないものでした。森忠政や家来たちは、木曽川の川みなと兼山の出身です。河川利用の豊かな知識や経験は、津山でも大いにいかされました。
高瀬舟は底が浅くて平らで、あまり深くない川を行き来するのに適しています。馬1頭に積める荷が150㎏なのに比べ、高瀬舟は1そうで6トン「(長さ約15m・はば約2m)(米100俵)」も運ぶことができ、鉄道が敷かれるまで、吉井川や加茂川などは荷物や人を運ぶ大動脈でした。
瀬戸内の塩や海産物、そのころはまだ珍しかったしょう油やみかん、瀬戸物の食器やたたみ表、明かりの燃料となる油も、高瀬舟で吉井川を遡ってはこばれました。また、米・大豆・小麦などの農作物とともに、なべ・かまなどの鉄製品が津山みなとから運び出されました。川みなとには、石灯ろうの常夜灯が設けられていました。今もこの常夜灯は、楢や船頭町、安岡町に残っています。(わたしたちの津山の歴史)(写真は昭和57年3月27日高瀬舟進水式の様子)