2018 津山消防出初式
2018年1月7日(曇り)午前10時から津山市内の消防ポンプ約100台と赤バイが勢ぞろいした中、津山消防出初式が吉井川河岸緑地公園(観覧は北岸)でありました。一斉放水が予定より遅れて行われました。今年は一般の見物客の方が増えていたように思われました。また、この日は午後から全国サッカー選手権大会で地元の作陽高校女子サッカーチームの決勝戦があり、見事準優勝に輝いたおめでたい日と重なりました。(2018年1月7日撮影)
2018年1月7日(曇り)午前10時から津山市内の消防ポンプ約100台と赤バイが勢ぞろいした中、津山消防出初式が吉井川河岸緑地公園(観覧は北岸)でありました。一斉放水が予定より遅れて行われました。今年は一般の見物客の方が増えていたように思われました。また、この日は午後から全国サッカー選手権大会で地元の作陽高校女子サッカーチームの決勝戦があり、見事準優勝に輝いたおめでたい日と重なりました。(2018年1月7日撮影)
お城の井戸
雨上がりの津山城跡を訪れた時、石垣から大量の水が噴き出しているのを見かけた。その場所は裏中門南桝形南面の石垣である。津山城跡の中で唯一岩盤が観察される場所である。北斜面の地形を削平し桝形を造出しているが、この時、南石垣面で高さ約1メートル程度にわたり岩盤が削り取られている。石垣はこの岩盤の上に直接積まれており、地下に浸透した雨水はこの岩盤面をつたって石垣から噴き出していたのである。これを見て、丘陵の頂部に位置する本丸の井戸にも水が溜まるということが理解できた。
幕末、津山藩と幕府や朝廷の間で活躍した武士の一人に、鞍懸寅二郎がいます。
寅二郎は赤穂藩(兵庫県)の出身でしたが、若いとき江戸で儒学を学び、津山藩の学問世話掛かりとなり、幕府や他の藩との交渉役などをつとめました。また改政一揆では、民衆の説得に当たり、一揆をしずめました。
明治になり、徳川の親戚である津山藩は、朝廷の敵とみられましたが、寅二郎は藩内をまとめ、津山藩が新政府に従うことを、政府や周りの藩に伝えました。
その後寅二郎は、藩の代表として活躍する一方、政府の役人として、廃藩置県などの仕事を進めていましたが、1871年、津山で何者かに殺されました。
全国に知られた富豪「蔵合家」
二階町をはじめ津山の城下町の成り立ちに深いかかわりをもったと思われる「蔵合家」について。
西側の家並の中で、現在の日専連ビルから北の中央病院の寮(旧電々局合)まで、二階町の表通りに面して日専連ビル、美作印刷、津山郵便局、津山中央病院寮が並んでいるが、江戸時代には蔵合家がここに居を構えていた。
「津山惣町改町」の二階町の項に、南から「西へ通る横丁あり。蔵合孫左衛門=表口23間、奥行17間、京町塩谷新兵衛持ち屋=表口4間半、奥行17間、白銀屋久兵衛=表口7間、奥行17間。西へ通る横丁あり」と記される。南の「西へ通る横丁あり」は日専連ビルの南側の通りで「馬方町」ともいわれる。次の「横町あり」は中央病院横で「八百屋町」と呼ばれていた通り。ともに舗装の下に元禄期の小路がそのまま息づく。
現在も家数は少ないが、元禄10年はわずかに3軒である。大半を「蔵合孫左衛門」の家で占め、表口は23間(約41㍍)である。
津山城(鶴山公園)に松尾芭蕉の句碑がある。津山と松尾芭蕉の縁を調べてみました。
全国に知られた富豪で俳人でもあった蔵合の五代目孫左衛門直良は、元禄(1688-)から享保(1716-1734)年間頃、全盛を誇った蔵合家当主。西鶴が『日本永代蔵』にえがいたのも直良の時代と思われるが、芭蕉とも交友を結び俳人でもあった富豪の面影をしのばす。俳号は「推柳」という。句集『夢三年』(寛政12年、岡山の佐々木松雨が編集)の中に、芭蕉の友人・山口素堂の一文をのせている。その中に「津山の住、推柳子のもとへ赤木氏より、わが友芭蕉の翁が絵かきて自ら賛せるを送らせー」とあり、芭蕉と蔵合直良推柳の交友を窺わせる。芭蕉が送った自画賛については享保元年(1716)に、やはり芭蕉門の俳人・月空庵露川が門人の燕説を供に津山を訪れた時の紀行『西国曲』に次のように記されているという。紀行には蔵合の繁栄ぶりを示す記事もあり、西鶴の『日本永代蔵』をさらに裏付ける。(2015年4月21日撮影)
石山(大谷)の石切場跡から津山扇形機関車庫を望む(2015年4月12日撮影)
約3年前の景色ですが、今は木が大きくなってこの様には見えません。まだ、扇形機関車庫改築前の懐かしい景色です。
川上音二郎が津山に来たころは意気さかんなときで、洋行帰りとして「オセロー」を上演したりしていたが、彼は一面で皇室を中心に忠誠をつくすという日本人の典型的な人物でもあったから、忠臣「児島高徳」に興味をもって、自分の演劇にも生かしていた。津山に来る動機もこれに関連がある。大津楼の津田正気が知人でもあって、一度は津山へという話ができていたこともあったらしい。一行は津山では当然に「児島高徳」を上演したが、川上の高徳はミノをつけていないのが特徴、貞奴が後醍醐天皇にふんして登場したりした。
川上は興行のフタあけ前に作楽神社に参拝したのだが、自分が思っていたよりは寂しい構えなので、内心驚いた。何とかしたいと津田に相談をもちかけ、結局、個人として拝殿と社務所を新築して寄贈したいと決心、当時作楽神社は県社であったから、県へ申請の必要があり、少しおくれて3月に岡山に行ったとき申し出ている。もちろん県ではありがたいこととして受け、作楽神社では7月に工事奏上式地と鎮祭をした。そして拝殿と社務所が川上音二郎の寄付ででき上がったのだが、落成式は41年春の大祭日である4月22日。このときは川上は参列できなかったので、こもかぶりの酒樽をお祝いとしておくっている。川上が自分で寄付した建て物を見に来たのは44年(1911)9月3日、やはり再度津山で興行をし、同時に座員一同をつれて参拝している。
皆様、明けましておめでとうございます。昨年中はいろいろとお世話になり、心よりお礼申し上げます。今年もどうぞよろしくお願い致します。
津山の春の風物詩、「津山さくらまつり」が2017年4月1日より市内各所で開催されますした。今年は4月1日~15日.まで開催され、楽しいイベントが盛りだくさんでした。郷土芸能ステージやお茶席、グルメイベントなど期間中は様々な催しがあり、取材した4月11日・12日はたくさんのお客様が来られていました。さくらの花も満開。また、ことしは桜の状態が良いため、4月16日まで津山さくらまつりが延長されました。
極楽山 光厳寺は、1614年(慶長19)に院庄にいた豪商蔵合氏の願いにより、院庄の清眼寺住職秀照により建てられました。本堂は当時のものといわれ、本尊は不動明王です。子育て不動として有名で、多くの人がお参りしています。不動明王像は、船頭町の田原屋六兵衛が牛窓沖から引き上げられたといわれる等身大のもので平安末期頃に作られたものです。
蔵合は森忠政の城下町づくりのため、二階町の日専連・津山中央クリニック辺りに呼び寄せられました。初代は隠居秋庵孫左衛門、2代目は山口祐雪。本名は山口氏でしたが、屋号が蔵合屋と名のっていたので2代藩主森永継から「ぞうごう」と呼ばれ、苗字を蔵合と変えました。蔵合山口氏ともいわれました。