楽しかった「街中ハロウィン」
2017年10月28日に津山市商店街で「街中ハロウィン」が行われ、子ども達や、大人達がユニークな仮装で楽しませてくださいました。このイベントは津山商工会議所青年部主催で行われ、仮装をしてスタンプラリー、屋台、ゲームが出来る盛りだくさんのイベントでした。大人の仮装は面白い、子どもの仮装はかわいいなぁ~と思った今年のハロウィンでした。(2016年の様子です。)
2017年10月28日に津山市商店街で「街中ハロウィン」が行われ、子ども達や、大人達がユニークな仮装で楽しませてくださいました。このイベントは津山商工会議所青年部主催で行われ、仮装をしてスタンプラリー、屋台、ゲームが出来る盛りだくさんのイベントでした。大人の仮装は面白い、子どもの仮装はかわいいなぁ~と思った今年のハロウィンでした。(2016年の様子です。)
平成29年10月28日(午前10時から午後2時30分)津山市大田のグリーンヒルズ津山・リージョンセンターで、森林を考える岡山県民のつどいがありました。当日は台風22号の影響もあり、朝から雨になりましたが、大勢のお客様が来られていました。会場では、ブルーベリー苗木1,300本の無料配布や、沢山の人がつるかご・丸太のコースター作りを楽しんでおられました。その他、地域特産品、ご当地グルメなど盛りだくさんのイベントでした。また、同時開催 津山小麦まつり&津山ショウガまつりもありました。
放浪の陶工、鶴山は明治18年(1885年)津山に生まれ、2歳のとき、林田で開窯していた浅本房吉(旧姓杉崎)のもらい子になった。高等小学校卒業のころのちょうど13歳のとき、当時津山市二宮の窯へ移っていた父房吉から轆轤の手ほどきを受けたという。以後、淡路の眠平焼に行って修業を積み、さらに、兵庫県出石の「シケ場」へ。その後、伊部、明石の朝霧焼、稲見へ次から次へと、それこそ、轆轤一丁肩にかけ、ひょうひょうと、渡り歩くこと約十数年。しかも、その間、京都陶器試験場の場長の藤江氏の世話になったり、また、陶器学校で三年ほど仕事をしたりした。
明治44年(1911年)静岡県の賎機焼に行き、そこに腰を据えて約20年仕事をした。もっとも、その間、たびたび津山に帰ったし、また、昭和10年(1935年)には、福岡県赤崎焼へも行っている。二十五歳のころ、赤磐郡佐伯町から嫁をもらった。一応幸福な中年期を過ごしたが、突然、子どもが病死し、続いて妻も失い自暴自棄になった。
「太平記」と児島高徳 児島高徳は忍びの頭だった。
「天莫空勾践 時非無茫蠡」(天勾践を 空しゅうする莫れ 時に茫蠡 無きにしも非ず)
児島高徳は、後醍醐天皇宿泊の院庄の館に忍び込んで、このように読む十文字の詩を桜の木をけずって書きました。
これはその昔、中国で茫蠡と言う家来が、敵にほろぼされかけた勾践という王を大変な苦労のすえ助け、国を再興させたという物語を例にして、こういう忠義な家来もいないわけではありませんよと、天皇を励ましたものです。中国の古典に詳しかった天皇は、これを見てほほえまれたといいます。
明治に新劇を始めた川上音二郎らによって、これが芝居として演じられて評判となり、院庄と高徳の名前は、広く全国に知られるようになりました。戦前には、高徳は楠正成と同じ忠義なさむらいとして、教科書にもとりあげられ、文部省唱歌にもなりました。
学者のなかには、高徳は、『太平記』の作者のつくりばなしであるとか、『太平記』の作者ではないかという人もいれば、瀬戸内の海の武士団であったなどさまざまな見方や意見がありました。『太平記』に何か所も記述されている高徳は、何物であったのでしょうか。
近年は、地域の歴史が見なおされ研究がすすんできています。関連した人物の資料やさまざまな史実から高徳は、実在の人物であったことがはっきりし、児島あたりの山伏をひきいる忍びの頭であったと、されています。
2017年11月12日津山市さら山地区一帯で「第20回 歩いてみんちゃい さら山 さら山時代祭」がありました。毎年行われる時代祭は雨で泣かされることもしばしばでしたが、何とか天気ももって午後には日差しもあり、ウォーキングするには好都合でした。カキ谷古墳~洗顔清水の約3.5kmですが、歩いているのは年配者が多かったようです。周囲の景色を愛でながらウォーキングをすると健康的かつロマンを感じまう。また、お腹いっぱいで良い事ずくめでした。さら山地区の皆様お世話になりました。
(2009年・2011年・2012年・2013年・2014年・2015年・2016年・2016年隠岐帝祭を訪問)
2017年11月12日の少し曇り空だったのですが、夕暮れ時にグリーンヒルズ津山へお散歩に行って来ました。今丁度イチョウの木が黄色に色づいてとても綺麗でした。また、トリムの森は縄文遺跡をモチーフにした遊園地です。
大地のウォールや石・丸太の滑り台、大きな自然石、砂場、ターザンロープなど子供達の豊かな想像力を生かした遊びができるゾーン。「トリムの森のわんぱく城」は県内の木材を使用した大型木製遊具で、低年齢の児童から小学校高学年までのお子様が安全に遊べる人気スポットです。ファミリーのためのテーブルベンチもあり、幼児から大人まで楽しめ、一日ゆったりと過ごせます。
2017年10月28日・29日午前10時~午後4時まで津山市沼の柳どおり周辺に於いて「柳ストリートマーケット」が執り行われました。初日の28日はあいにくの雨模様になり残念でしたが、各お店の工夫を凝らした品物が店頭に並んでいました。かぼちゃの重さ当てクイズに挑戦したり、ワークショップでは楽しそうに作品を作っておられました。また、沖縄県人会のみなさんも、テントの中でエイサーを踊っていらっしゃいました。おにぎり美味しかったですよ。
本堂横にあるのが樹令200年の「傘大モミジ」。2009年に大手術をして、今年は元気になって美しい姿で、一際めだっておりました。善應寺は高等高田小学校跡地の碑があったり、モミジの根元には、高浜虚子が読んだ大紅葉の句碑もあります。(2015年11月11日取材)(2015年のアジサイ)、(2014年の取材)、(2014年のアジサイ)、( 2012年の善應寺の樹令200年の「傘大モミジ」)、(2009年の取材)
上紺屋町の町内神。浮田の名の由来は、不詳。
ここの道路の北側に稲荷社と金比羅社が把つであったが、明治の頃、町内の鳥羽屋に肥られていた御大師様と合わせ三体を並べて大師堂と称し町内でお記りするようになった。その歴史は明らかでないが、古くからのものと思われる。
所在:津山市上紺屋町 祭神:宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)
創建:不詳 祭礼:秋祭10/第三日曜 (文:津山城下町まちなかお社巡りマップ 津山まちづくり本舗より抜粋)(撮影2017年4月23日)
浮田佐平は、慶応3年(1867)、父卯佐吉と母柳の間に生れました。
父卯佐吉は、幕末に筑後屋という屋号で米仲買頭をしていました。明治に入って貨幣改方手代を命じられ、明治21年(1898)には、津山銀行の支配人となりました。
母柳は明治10年に津山にあった岡山県勧業試験所を習了後、助教を命じられました。明治13年、同所が廃止されることになり、夫卯佐吉とともに養蚕所・製糸場を建設し、後進を養成しました。
浮田佐平は、両親から受け継いだ製糸業をはじめとして、多彩な事業を展開していました。
大正十一年(1922)、五十五歳のとき、陶磁器製造を始めます。佐平は、九谷焼・清水焼・伊万里焼など、全国的に有名な焼物のどれにも似ていない、独自の焼物を開発し、美作の特産品にしたいという目的を持っていました。海外、そして数百年先でも通用する美作特産佐平焼が完成すれば、津山の工業の発展につながると考えていたのです。
それは、「津山の生んだ事業界の偉傑」と語りつがれている浮田佐平の、壮大な戦いのはじまりでた。