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合祀されている大日如来とお薬師様(福井)

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 福井の小字本平集落の西側は、丘陵性の山地であり、それぞれの谷筋に山道がついている。集落北端の山麓山道を少し上がると、谷筋に南面して仏様を祀っている比較的新しいお堂(逗子)がある。標札に「勝南霊場第弐拾弐番 御本尊薬師如来」とはっきり書かれている。また、内部の板には、「金剛三昧院第七五番 札所」とある。
 これが、本平の住民がお参りしえいるいわゆる「おやくしさん」である。さらに、祭壇を見ると、光背をもった小さな薬師様の像と共に、高さ1m近い梵字の刻まれた石碑が並んで祀られている。
 石碑の正面は、珍しく全て梵字で書かれており、この石碑は、本格的な信仰対象の石仏様であることが分かる。
 側面に「延享元甲子天十月二八日」と刻まれている。延享元年は1744年であり、徳川吉宗の政治が行われていた江戸時代半ばのかなり古いものである。清瀧寺さんの解読で判明したとのことであるが、梵字の石仏は、「大日如来」の仏様であり、河面の旧真加部街道筋の大日如来とは類型を異にしている。

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発掘古墳に祀られた本平の早神様(福井)

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 福井の本平集落の西側は、山地となっているが、そこに井ノ奥谷(いのおくたに)と呼ばれる谷がある。そこには、明らかに半ば削り取られたとわかる古墳があり、その中央部分を平らにして、早神様(はやがみさま)と言われる小詞が祀られている。また、その後側のすぐ近くに、井上一族のこれまた珍しい先祖社が祀られている。
 所在は、井ノ奥谷に入ってすぐ山際北斜面である。
 その場所は、かつて森藩政のもとで、福井村の大庄屋であり、福井八幡宮の軒札にも名前が記載されている井上五良兵衛(いのうえごろべえ)の屋敷があったすぐ裏手の山である。井上五良兵衛の庄屋屋敷は、今は全く畑となっているが、屋敷裏の谷には、いまも防火用水池のあとが残されている。その池付近から、この古墳や祠を見ることができる。
 津山市の埋蔵文化財センターでは、この山地に本平古墳群として、三基の古墳を登録しているが、古墳時代末期の、この早神様が祀られている古墳もその一つに該当している。

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美作の大庄屋巡り「井上家」

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井上家 井上勘三郎 勝北郡福井村 土浦藩
 家伝によれば、源頼朝に仕えた井上十郎左衛門義吉の後裔井上蔵人正清が播磨国乃井野から移住して岩黒城を築いた。一族は後藤勝基に仕え、天正7年(1579)三星城合戦で戦死した者もいた。正清の子孫が、福井村帰農したという。延享4年(1747)、土浦藩は吉野郡、勝北郡の1万9千石余を領し、天明2年(1782)大庄屋として近長村甲田猪吉、福井村井上勘三郎を任命した。
 大庄屋としての記録はなく不明である。福井村正伝寺、八幡神社の延享元年の棟札に、庄屋井上五郎兵衛の名がある。
 福井村は、広戸川が形成した低地と、低丘陵の村である。森藩改易後、幕府領となり、延享4年(1747)常陸土浦領となった。

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「津山まちなか博物館」が、バール横丁に移転しました。

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「津山まちなか博物館」が2019年9月14日に、本町三丁目「バール横丁」に移転オープンしました。
津山まちづくり倶楽部のメンバー所有のアンティークな物や珍しい骨董など、選りすぐった逸品が装いも新たに展示されています。(2019年9月28日撮影)

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世界の珍蝶・希少蝶(つやま自然のふしぎ館)

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 世界中の珍しい蝶々、美しい蝶々、大きな蝶々、希少の蝶々等々が沢山展示されています。また、とても可愛い羽の模様に、これは神様が作った模様だと思わずにおれませんでした。ガラス越しなのであまりうまく撮れませんが雰囲気だけは解るでしょうか?
 今までは、沢山ありすぎてスーッと通り過ぎていましたが、じーっと見ると綺麗なもんだなぁ~
何かのデザインのヒントになりそうな柄だなぁ~と思うような粋な色合いです。皆様も是非一度つやま自然のふしぎ館へお出で下さい。(写真:2019年9月28日・10月1日撮影)

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八幡神社(院庄)

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由緒
創建年代は不詳であるが、美作の政治の中心地に鎮座せられたので、多数の氏子を有し、祭事も盛んであったが、津山に政治の中心が遷ってから衰退し、一時は吉田神社の境外社であったが、明治六年に村社に列した。昭和十六年神饌幣帛料供進指定神社に指定せられた。(文:『岡山県神社庁誌』より)(2019年1月19日撮影)

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会所 山田家(一方)

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 山田家は通称を会所(かいしょ)と呼ばれているそうです。お殿様がお城を出て村人の意見を聞きに庄屋の植月家に来られた時に、村人はここで衣服を整えて向かいの庄屋の家に出向いていたそうです。山田家によれば、山田盛勝が福島正則に仕えていたが福島没収後、一方村に住居し百姓となる。後、山田紋次郎が森公より町年貢取り立て役を仰せつかっている。その末裔、山田虎吉は佐良山村会議員をつとめ、明治22年には嵯峨井堰組合より頌徳状を受けている。(2019年8月18日・24日撮影)
※会所(かいしょ)
集会や事務の行われる場所。平安時代以後、貴人の邸の客殿をこう呼んだが、江戸時代には、幕府・諸藩の行政、財政上の役所、町役人、村役人の事務所、商取引、金融関係の事務所に、この名がつけられた。

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有木乢(西田辺)

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 中山の神に奉仕した里人有木氏が居住していたところ。屯倉、神饌1000米のルーツと言われている。江戸時代にここに伯耆街道を通した、新町宿場町、百乢、養野、倉吉、隣接の香々美村への主要連絡通路。牛馬の水飲み場であった古井戸や屋敷跡がある。(文:美作一宮の文化財地図より)

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石灯籠(西田辺)

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 津山市西田辺地内の鵜ノ羽川と県道が交差する地点で、民家の出入り口の県道脇に立派な灯篭が建立されている。灯篭の碑文内容を要約すると、安政年中(1854~1859)に田原安五郎が発起して津山より香々美中村までを道路改修し、そして、その遺志を継いで息子田原平五郎が明治4年に一宮から人形峠まで道路改修を始めたと刻字されている。

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美作の大庄屋巡り「植月家 植月六郎右衛門」

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 植月家 植月六郎右衛門 久米南条郡一方村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 植月氏は、美作菅家七党の一つである。家譜によれば、その子孫が宇喜多氏に仕えて一方村を与えられ、神南備山北麓に居を構えた。これが一方村植月氏の祖である。新右衛門が森藩の大庄屋を勤め、その後明治まで続いた。
大庄屋として
 植月新右衛門は承応2年(1653)の一方村の「山上り」や、延宝7年(1679)の皿川改修工事による広い新田作りに功績があった。皿川改修には下弓削村大庄屋河原善右衛門とともに尽力した。六郎右衛門は元禄一揆の記録を残し、山中一揆が起ると、120名の人夫を連れ、弓や鉄砲などを携帯して、鎮圧に出動する準備をした。澄江は、慶応2年(1866)長州戦争に郷夫隊総取締として従軍した。

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