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美作東部―大庄屋巡り「光井弥太郎尚常」(河面)

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光井弥太郎尚常(河面村)
 河面村は勝北郡に属し、北は近長村、南は福井村である。正保郷帳では田方五百三十三石余・畑方三十四石余。森藩断絶後、元禄十一年から幕府領となり、寛政六年から文化十四年迄は播磨国龍野藩預地、文政元年以降は再び津山藩領となる。現在は津山市河面である。勝北は美作国北東部にあって中世末には勝田郡と称していた。慶長五年小早川秀秋が入封して美作七郡を十二郡に再編したとき勝南・勝北に分けたとと云わる。郡境が明確にされたのは慶長検地によってであろうと云われる。元禄十一年以降は勝南・勝北郡として定着し、明治三十三年に合併して勝田郡となって郡名が消えた。

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美作東部―大庄屋巡り「保田市郎右衛門」(野村)

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保田市郎右衛門(野村)
 野村は東南条郡に属し、東端を加茂川が流れ勝北郡近長村へ続く。東作誌によると慶長以前美作国七郡の時は北の草加部村を山形と称し野村を里方と呼んだ。慶長年中に郡を分けて東北条郡草加部村と東南条部野村に改称している。正保郷帳では田方二百九十一石余、畑方三十四石余である。森家断絶後も津山藩領として続く。  

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8月の早朝お散歩

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2018年8月18日の小田中散歩で出逢ったお野菜たちです。
今年の夏は異様に暑くて8月に入ってからも36度は当たり前でしたが、お盆前後から朝晩が急に涼しくなりました。というか涼しいを通り越して寒く感じられるようになりました。朝が涼しくなったので、急な坂道も歩くとほどよい加減です。畑には季節のお野菜がすくすく育っていますが、暑さにピーマンは落下して赤くなっていました。

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仁木永祐先生顕彰碑と郷校籾山黌跡

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 幕末~明治時代の医師・教育者・地方政治家として知られる仁木永祐は、東北条郡下津川村(今の津山市加茂町下津川)の庄屋豊田伊兵衛の四男として一八三〇年(文政十三)二月八日に生まれた。
 一八四三年(天保十四)、津山藩儒稲垣雪洞に入門、のち永田半眉にも師事。一八四六年(弘化三)、津山藩医村山春庵に入門し漢方と外科を修める。一八四八年(嘉永元)、東南条郡籾山村(今の津山市籾保)の医師仁木隆助の長女「たけ」と結婚、同年江戸に遊学し昌谷精渓に漢学を、また津山藩医(江戸詰)箕作阮甫や宇田川興斎に蘭学を学んだ。
 一八五〇年(嘉永三)、妻「たけ」が男子出生後母子共に没したため、翌年、分家仁木梅太郎の二女「佳津」を娶り、隆助の養子となり家業を継ぐ。医業を助けるかたわら、津山藩儒大村桐陽(斐夫)に入門、またペリーが浦賀に来航した一八五三年(嘉永六)には上坂して、後藤松陰のもとで漢学を修めた。

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虎さんと狐『山西の民話』

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虎さんはつりずきの人でした。
或る秋の夕方から大川へ鯰(なまず)をつりに出かけました。
今夜はとてもマンがよく五匹もつれました。もう12時近かったので、きりあげて帰りかけました。
ビクの中で鯰(なまず)もはねていたのをおぼえています。
鹿の子の道を回って、明るい十六日のお月様がでていました。

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いろいろぐみ展 Vol.16

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 2018年7月29日(日)くらやアートホールで「いろいろぐみ展」にお邪魔してきました。今回は、―I・愛・あい― をテーマにした絵画、写真、陶芸などの作品が展示されていました。会場では熱心に作品に魅入る男性の姿も多く見かけられました。
「いろいろぐみ展」は、県北を中心に活動しているジャンルも年齢もバラバラ、個性豊かな女性作家8名の展覧会だそうです。

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津山市河面の納涼祭がありました。

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2018年7月29日心配された台風の影響もなく少し涼しい夕暮れに車で走っていると何やら賑やかな気配に連れられて行って見ると、津山市河面の納涼祭でした。河面地区の納涼祭は初めて訪れたのですが、とても子どもが多い気がしました。まだ、始まったばかりで、これから色々なアトラクションがあるのでしょうか。とても和気あいあいとしていて親睦を図っておられました。

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