津山・城西まるごと博物館フェア2017
津山城西地区の旧出雲街道沿線を「まるごと博物館」に見立て、歴史と文化を詰め込んだイベント「津山・城西まるごと博物館フェア2017」が、2017年10月1日(日)(午前10時~午後3時)開催されました。この日は曇り空の天候でしたが、全国から来られた約50店舗のアート&クラフト店と約2万人の人出で賑わいました。年々とお店も人出も多くなり大盛況でしたね。(2016年)、(2013年)、(2012年)、(2011年)、
津山城西地区の旧出雲街道沿線を「まるごと博物館」に見立て、歴史と文化を詰め込んだイベント「津山・城西まるごと博物館フェア2017」が、2017年10月1日(日)(午前10時~午後3時)開催されました。この日は曇り空の天候でしたが、全国から来られた約50店舗のアート&クラフト店と約2万人の人出で賑わいました。年々とお店も人出も多くなり大盛況でしたね。(2016年)、(2013年)、(2012年)、(2011年)、
2017年10月1日(日)10:00~15:00に本町三丁目商店街に於いて食をメインとしたイベント「サンBIO MARCHE 3」が開催されました。身体に優しい無農薬野菜やオーガニック食品を中心にしたイベントです。フランスでは健康なイメージを表す言葉として定着したBIO(ビオ)。 本町3町目商店街は「BIOタウン」として生まれ変わろうとしています。
主催は協同組合本町3丁目サンBIO-MARCHE楽しむ会です。(2017年6月4日の様子)
噫忠義桜十字詞之碑塔 (前回取材:「作楽神社」と後醍醐天皇)
戦艦大和の建造者である海軍技術中将庭田尚三を会長とする忠桜会が、昭和46年4月18日に建設したものである。表面に「天莫空勾践時非無氾范蠡」と、後醍醐天皇御製二首および斉藤監物の七言律詩「題児島高徳書桜樹図」を、裏面に道家大門の和歌二首を記してある。(文:現地案内板より)
道家大門(ひろかど)は天保元年(1881、旧暦天保元年11月18日が西暦1831年1月1日にあたる)12月10日津山藩士遠藤浦右衛門正利の四男として生まれた。幼名弥作、のち助十郎、順と名乗った。伯父にあたる同藩津田七太夫文行は藩の料理番を務めていたが、津田家の長男真一郎は学問修行のため廃嫡、次男鉄次郎は早逝したため、従兄弟の大門が養子となって津田家を継いだ。一時期津田弥作儲美と称していたが、津田の本姓が道家であることを知り、文久元年(1861)に道家と改姓した。その後料理番より進み、慶應4年(1868)に御刀番、明治維新後に作事奉行となる。同年藩より国学修行を仰せ付けられ、平田鎮胤(平田篤胤養嗣子)に入門した。
2017年9月26日(火)朝から良い天気になった津山市です。でも、明日からは雨とのことで、急いで彼岸花めぐりに出かけようとしたら、ママは彼岸花が大好きだとの話を伺って、では一緒に行こうという事になり、真庭市の川東公園に行って来ました。ここは昨年も行きましたが、彼岸花が見事な所です。
女院塚は作楽神社の鳥居をくぐった所の駐車場の片隅にあります。
通称、女院くろ 後鳥羽上皇が隠岐に御遷幸の途次、この地で病歿された寵妃姫法師を葬った塚である。現在地のやや北東にあったものを平成11年に移転した。女院塚保存会 代表 日原桜道
(撮影:2017年9月18日)
協同組合 津山銀天街、協同組合 元魚町商店街の主催で、2017年9月23日(土) B'z結成30周年 稲葉さんお誕生日おめでとう会「ダンスで盛り上げよう」IN 津山が行われました。
当日参加チームの皆さんは、稲葉さんへのお祝いのメッセージを発表しました。その後、ダンスの発表会があり、それぞれの参加チーム全員に賞がいただけたり、楽しい稲葉さんお誕生日おめでとう会「ダンスで盛り上げよう」IN 津山だったそうです。
2017年9月15日に近くまで来たので、岡山県で最も古いとされる弓削駅に立ち寄って来ました。
弓削駅駅舎は、岡山県最古の木造駅舎で築後115年を迎えた。
弓削駅がある中国鉄道津山線(現在のJR津山線)は、県下で二番目の路線として1898(明治31)年12月21日に、岡山市駅から津山駅(現在の津山口駅)間が開通した。駅舎は、床面積に大小はあるが形状はほぼ同じで、当初は九駅であった。現在、開通当寺の駅舎が残るのは、玉柏・弓削・誕生寺の三駅のみであるが、玉柏駅は本屋の半分が減築され、誕生寺駅は下屋の桁に補強材の追加・方杖の部材などに変更がみられる。
津山市押入れにある真言宗醍醐派 勅使山 圓福寺(2017年6月210日取材)
勅使遺跡
国道53号線の高野交差点付近にある遺跡です。交差点付近にある勅使山圓福寺の小堂付附近の耕作地附近から瓦などが見つかっており、寺院跡と考えられています。平成21年と平成27年に一部発掘調査は行われていますが、その際には遺跡と遺物は発見されていません。(文:『第112回文化めぐりの案内』より)
郷土の偉人・片山潜
片山潜は1859年(安政6年)久米南町羽出木の庄屋、藪木国平(父)きち(母)の二男として生まれ、幼名を菅太郎といい19歳まで勉学のかたわら家業に精励した。その後片山幾太郎(建部町下神目)の養子となり(徴兵回避のためともいわれる)のち復籍し、さらに片山常吉(久米南町塩之内)の養子となる。この頃、名を片山潜と改める。
1884年(明治17年)26歳で渡米、働きながら苦学し、グリンネル大学などを卒業し、その間、社会問題、労働運動に関心を持ち社会主義者となった。そして38歳の時、13年ぶりに帰国、明治30年にキングスレー館を開き社会主義、労働運動の啓蒙、普通選挙の実現や反戦平和の運動など多彩な文筆活動、実践運動に専念し日本の社会主義運動に偉大な足跡を残した。
大正3年9月9日、日本での弾圧下を逃れて渡米し永遠に日本には帰らなかった。
1922年(大正11年)の暮れにコミンテルの極東民族大会(ロシア)に参加して議長を務めるなど、精力的な活動を続け1933年(昭和8年11月5日13時50分)クレムリン病院で故郷羽出木の秋の空を欧州第一のトロサックスの空よりも美しいと遠く故郷に想いをはせつつ74歳の生涯を閉じた。
(久米南町観光協会)