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旧扇形機関車庫内に「津山街なみ展示室」が完成!

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 旧津山扇形機関車庫に津山街なみ展示室が完成し、4月7日から一般公開されました。津山街なみ展示室の中には、扇形機関車庫を実物の150分の1にしたジオラマが展示され、Nゲージの鉄道模型が6通りのプログラムで走行。車両も10車両が走っていて鉄道ファンや子供達にも楽しめそうです。これから半年毎にプログラムを入れ替えながらバージョンアップするそうです。(鉄道模型専門店トレビック模型さん提供)
「みまさかローカル鉄道観光実行委員会」とJR西日本は、土・日を中心に47日間、車庫を一般公開、展示室もこの時に見学できます。無料(要予約)※お問合せはJR西日本岡山支社の見学係(Tel.086-225-1179)

「旧津山扇形機関車庫と懐かしの鉄道展示室」について詳しくはこちら(2012年スケジュール)

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野外に出て親子で楽しんだイチゴ狩り。

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2012年4月2日(月)今日は天気も良く晴れ晴れとした日になりましたが、まほらさんのハウスの中はそれ以上にぽかぽか陽気で、子供達は大きな声でハウスの中を走りまわり、時々お母さんに叱られながらも真っ赤に熟れたイチゴを美味しそうに食べていましたよ。イチゴ狩りが一段したと思ったら、今度は昼食が始まり、辺りには美味しそうなお肉を焼く匂いが漂っていました!イチゴをおなか一杯食べた後ですが、みなさん食が進んでいましたよ。

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河面 墨池山(ぼくちざん)清瀧寺と仁王門

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 河面にある清瀧寺は、作州きっての古い真言宗のお寺である。(お寺シリーズ、レポート記事
旧「岡山県勝田郡誌」(初版 大正元年)に、「本郡には役の小角夙に来り聖武の朝国分寺を建てられ又行基来り空海来り圓仁来り各寺院を創造す 故に古来巨刹多く宗派は真言を最多とす天台之に亞ぐ」と記述されているように、真言宗の清瀧寺は、まさに、弘法大師(空海)ゆかりの古刹とされている。
 空海が唐の都長安で修行に励んだ寺は、青龍寺であり、ゆかりの寺院名称であるうえに、寺伝によると、平安時代初期の弘仁12年(821年)、嵯峨天皇が弘法大師に命ぜられて建立されたとされている。墨池山というのも、雨乞いの加持祈祷を行った弘法大師が、自らその筆を洗ったという「墨の池」も伝説にちなんでの山号であり、今も伝説の墨池という小池が残されている。
 清瀧寺の往古は、広大な七堂伽藍をようして、多くの僧坊があり、西光寺・真福寺など7カ寺の末寺を持つほど栄えたらしいが、中世戦乱に巻き込まれ、やがて廃絶したと言われている。(2012.3.20)

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癒しフェア2012in勝央がありました。

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癒しフェアー2012in勝央が3月18日(日)勝央町公民館でありました。
このコンサートは、多忙な毎日を過ごす方々に、いろいろなカテゴリの癒しを提供するイベントです。このイベントは、癒しのコンサートを中心に、皆さまの日頃の生活の疲れの解消や、リラクゼーションを目的とし、普段見落としがちな美容や健康に目を向けていただくきっかけ作りとして開催されました。
一途の癒しコンサート、また、屋台もありで楽しい1日が過ごせました。(写真提供:癒しフェアー実行委員会)

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田熊 八幡宮神事場と南参道口の石碑群

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田熊 八幡宮神事場と南参道口の石碑群(2012.1取材)
 田熊西山集落の南側にある丘陵上の平坦地は、八幡宮の神事場となっている。神事場とは、お御輿のいわゆるお旅所のことである。祭礼のとき、田熊八幡宮を出たお御輿は、左折して西ノ谷集落に入り、南側の神事場参道の坂道をいっきに上って、ここで神事を催した後で、休憩をしている。神事場は、今でこそ片隅に石垣の御輿台を残すのみで、全体が小グランドのようなゲートボール場に様変わりしているが、戦前は、南側の参道と共に松並木の大木に囲まれた草原で、祭礼に多くの幟(のぼり)が立ち並び、神聖さを感じさせられる場所であった。
田熊八幡宮が、あまりにもけわしい坂道を上っていかねばならぬため、足の弱い年寄りや婦人・幼児たちのとって、神事場がお祭りのお参り場所であった。そのため、ここで輿練りなど盛大に神事が行われたことから、大勢の人が集まるようになり、戦前は、出店も数軒構えられるほどに賑わったそうである。

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田熊 参道石碑群(3) 神變大菩薩等修験道碑

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田熊 参道石碑群(3) 神變(しんぺん)大菩薩(だいぼさつ)等修験道碑(とうしゅげんどうひ) 
 神事場南の石碑群の中で、目立って大きいのが、東側基壇上の2つの修験道碑である。この石碑は、本来もう少し東に位置していたのが、昭和の初め、家の建築に際して現在地に移されたそうで、文政6年(1823年)のものである。石碑には次のように刻まれている。

(梵字)神變大菩薩
文政癸未年 願主 福島譽次
村々 惣講中

(梵字) 大月如来
(※梵字は○印の中にある) 
 神變大菩薩というのは、修験道の開祖、役行者(役小角)の諡名である。
 寛政11年(1799年)の役小角一千百年御遠忌にあたり、光格天皇から時の聖護院にこの諡号が与えられ、以後、この別名で祀られることが多くなった。(2012.1取材)

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田熊 参道石碑群(2) 小椋里右衛門碑と大日如来

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田熊 参道石碑群(2) 小椋里右衛門碑と大日如来(2012.1.取材)
 題名に揚げている小椋里右衛門碑というのは、數士のとなのる門人(弟子)たちが建立した、小椋里右衛門の顕彰碑のことである。この碑文は、次の通り。
(塔) 発起 世話方
小椋里右衛門一清碑
植月北村
鳥家音五郎一尊
(台座) 敷士
門人中
誌之
(裏)惟時 安政三丙辰歳九月吉日
辞誓 (万葉仮名で句が刻んであるも、文字不明につき不祥)
(部分的には、"算礼に○○と きくなり 数のたみ"と読める。)
 小椋里右衛門は、いわゆる芸名に相当する贈名(諡)であって、本名は久常里四郎と名乗り、近くの勝加茂村安井の濃野重蔵次男と言われている。久常家より嫁がせた嫁が間もなく里帰りしてしまったため、里右衛門は、結果的に当地に来て婿になったようで、久常姓を名乗った。近くに里右衛門の墓があり、墓標には、久常里四郎 74歳明治11年(1878年)9月3日没とある。
 若くして他界した娘の墓には、里右衛門娘と記入があり、里四郎と里右衛門とが同じ人物であることがはっきりと分かる。
 田熊には、算仙と言われて名高い和算の大家、中村周介・嘉芽市が輩出していることから、和算を門人たちに指導していたのではないかと思われたが、地元では、算盤の先生であったと伝えられている。どこでどのような私塾を開き、植月の鳥家音五郎以下門下生に教えていたのか、その活躍は不明で、今後の調査に待つものである。

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田熊 神場場参道の石碑群(1) 孝子彌三八傅

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 江戸時代は、儒教の教えに基づき、忠義・孝行が最も大切な美徳とされた。幕藩政治の元で民衆を教化するため、為政者は、忠誠や孝養を尽くした代表的人物を表彰したり、褒美を取らせて賞賛し、他の範とした。後世に長く伝えるため、そのことを石碑に託して建立したため、今日、こうした顕彰碑を時折見かけることがある。「孝子彌三八傅」の石碑もこうした事例の一つである。
 彌三八が、母親の望むまま、足の悪い母親を背負って殿様の行列を見に行ったところ、殿様の目に止まり、孝行息子として褒められ、褒美をもらったと、地元では伝えられている。

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