津山城(鶴山公園)のつつじと藤の花
2012年5月6日の津山城(鶴山公園)のつつじです。今年は花のつきがいま少しといったところです。でも色とりどりのつつじが綺麗でした。藤の花はさっぱり咲いていませんでした。少しがっかり!この日はお天気も良くてゆっくりベンチで友人と語り合いました。緑が一杯の津山城(鶴山公園)本丸から見る津山市内はまたいいものです。みなさんもいかがですか?(過去の取材)
2012年5月6日の津山城(鶴山公園)のつつじです。今年は花のつきがいま少しといったところです。でも色とりどりのつつじが綺麗でした。藤の花はさっぱり咲いていませんでした。少しがっかり!この日はお天気も良くてゆっくりベンチで友人と語り合いました。緑が一杯の津山城(鶴山公園)本丸から見る津山市内はまたいいものです。みなさんもいかがですか?(過去の取材)
(2012年5月7日の衆楽園)衆楽園は、江戸時代初期に津山藩主・森家によって築造された回遊式の庭園です。元禄11年(1698)に松平家が藩主となって以後幕末までは、家臣や他藩・他家からの使者を謁見するための「御対面所」、または藩主の隠居所の庭園として使われ、明治3年(1870)に「衆楽園」として命名されました。
衆楽園は津山城の北側(津山市山北)に位置しており、庭園は南北に長い敷地で、大半を池が占めています。別邸跡の古い建物群は現存せず、それらを再現した建物(余芳閣・迎賓館・風月軒ほか)が建っています。(津山城より)
春夏秋冬いつ来ても見ごたえあります。(過去の取材)
神南備山(かんなびさん356m)は「岡山県百名山」です。佐良地区から上っていくと山頂付近には、六角形の展望台がある津山の代表的な夜景スポットですが、昨年までは木が茂っていて市内がよく見えなかったのですが今年はよく見えましたよ!
展望台に人が訪れると、自動的に照明が点灯する仕組みになっているそうです。(2012.5.6取材)
所在地 / 津山市井口 ★過去の取材はこちらをご覧ください。
2012.4.21
牛の子用水は、河面地域にある水田の灌漑用水であるが、かつては、河辺地区の国分寺台地の水田を潤していた。楢にかかる桜橋の約200m下流にある加茂川牛の子渕から取水し、近長~河面~河辺井ノ口~国分寺~瓜生原と、延々およそ7,500mに及ぶ、近郷まれに見る長大な用水路であった。
国分寺に至るこの用水路は、明治8年に着工し、村中総動員の突貫工事で、明治9年の(1876年)5月に竣工し通水を見た。当時、勝南郡国分寺村・瓜生原村は、池水や天水に頼っていた高台のため、水不足になやみ度々干害を受けた。地租改正令の実施に伴って年貢米から現金によって定額の地租を支払うようになったため、干害の被害は重大であった。関係者が協議を重ね、近長・河面村の協力支援を受けて、この大工事に着手したのであった。今も、これを記念して「明治新渠之碑」という記念碑が、国分寺境内に残されている。(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)
旧津山扇形機関車庫に津山街なみ展示室が完成し、4月7日から一般公開されました。津山街なみ展示室の中には、扇形機関車庫を実物の150分の1にしたジオラマが展示され、Nゲージの鉄道模型が6通りのプログラムで走行。車両も10車両が走っていて鉄道ファンや子供達にも楽しめそうです。これから半年毎にプログラムを入れ替えながらバージョンアップするそうです。(鉄道模型専門店トレビック模型さん提供)
「みまさかローカル鉄道観光実行委員会」とJR西日本は、土・日を中心に47日間、車庫を一般公開、展示室もこの時に見学できます。無料(要予約)※お問合せはJR西日本岡山支社の見学係(Tel.086-225-1179)
「旧津山扇形機関車庫と懐かしの鉄道展示室」について詳しくはこちら(2012年スケジュール)
2012年4月2日(月)今日は天気も良く晴れ晴れとした日になりましたが、まほらさんのハウスの中はそれ以上にぽかぽか陽気で、子供達は大きな声でハウスの中を走りまわり、時々お母さんに叱られながらも真っ赤に熟れたイチゴを美味しそうに食べていましたよ。イチゴ狩りが一段したと思ったら、今度は昼食が始まり、辺りには美味しそうなお肉を焼く匂いが漂っていました!イチゴをおなか一杯食べた後ですが、みなさん食が進んでいましたよ。
河面にある清瀧寺は、作州きっての古い真言宗のお寺である。(お寺シリーズ、レポート記事)
旧「岡山県勝田郡誌」(初版 大正元年)に、「本郡には役の小角夙に来り聖武の朝国分寺を建てられ又行基来り空海来り圓仁来り各寺院を創造す 故に古来巨刹多く宗派は真言を最多とす天台之に亞ぐ」と記述されているように、真言宗の清瀧寺は、まさに、弘法大師(空海)ゆかりの古刹とされている。
空海が唐の都長安で修行に励んだ寺は、青龍寺であり、ゆかりの寺院名称であるうえに、寺伝によると、平安時代初期の弘仁12年(821年)、嵯峨天皇が弘法大師に命ぜられて建立されたとされている。墨池山というのも、雨乞いの加持祈祷を行った弘法大師が、自らその筆を洗ったという「墨の池」も伝説にちなんでの山号であり、今も伝説の墨池という小池が残されている。
清瀧寺の往古は、広大な七堂伽藍をようして、多くの僧坊があり、西光寺・真福寺など7カ寺の末寺を持つほど栄えたらしいが、中世戦乱に巻き込まれ、やがて廃絶したと言われている。(2012.3.20)
田熊 八幡宮神事場と南参道口の石碑群(2012.1取材)
田熊西山集落の南側にある丘陵上の平坦地は、八幡宮の神事場となっている。神事場とは、お御輿のいわゆるお旅所のことである。祭礼のとき、田熊八幡宮を出たお御輿は、左折して西ノ谷集落に入り、南側の神事場参道の坂道をいっきに上って、ここで神事を催した後で、休憩をしている。神事場は、今でこそ片隅に石垣の御輿台を残すのみで、全体が小グランドのようなゲートボール場に様変わりしているが、戦前は、南側の参道と共に松並木の大木に囲まれた草原で、祭礼に多くの幟(のぼり)が立ち並び、神聖さを感じさせられる場所であった。
田熊八幡宮が、あまりにもけわしい坂道を上っていかねばならぬため、足の弱い年寄りや婦人・幼児たちのとって、神事場がお祭りのお参り場所であった。そのため、ここで輿練りなど盛大に神事が行われたことから、大勢の人が集まるようになり、戦前は、出店も数軒構えられるほどに賑わったそうである。