荒神社(近長)
荒神社(旧無格社)津山市近長298
主祭神:素戔嗚尊、例祭:10月22日、主要建物:本殿・拝殿、
由緒沿革:本神社の創建は弘仁12年と云うが不詳である。
下は代官屋敷跡、上は八坂神社がある。(文:『岡山県神社誌』より)(2021年9月9日撮影)
荒神社(旧無格社)津山市近長298
主祭神:素戔嗚尊、例祭:10月22日、主要建物:本殿・拝殿、
由緒沿革:本神社の創建は弘仁12年と云うが不詳である。
下は代官屋敷跡、上は八坂神社がある。(文:『岡山県神社誌』より)(2021年9月9日撮影)
約100年前の古き良き時代(大正元年~昭和9年頃)の神傳流の記録写真
田中義男さんの遺品の中にあった、昭和の初期から10年間ほどの神傳流の記録写真がありましたので一部をご紹介してみます。(神傳流とは、日本泳法の一流派。加藤清正の臣、貴田孫兵衛統治を流祖とし、伊予国(愛媛県)大洲藩士加藤主馬光尚に伝えられ、美作国(岡山県)津山藩士植原六郎左衛門正方が広めた。あおり足を基本とし、真・行・草の三体の泳法があり、遠泳に適する。皇朝神征水軍練法ともいう。)コトバンクによる。
田中義男さんは子供のころから熱心に神傳流を続けていて指導者の資格も取得し、大学が休みになると帰ってきては子ども達を指導をされていました。
アルバムを拝見しながら背景に写っている風景からして、茅町や安岡町あたりでしょうか?いずれにしても昭和初期はこんな風景だったのだと。
田中次郎 明治39年10月23日東京芝区生れ、昭和60年8月1日没(左の写真は兄田中孝夫と)
大正2年(次郎が8歳の時)父田中治平が亡くなり、2年後家族は津山に帰って来た。
津山中学校4年終了後、父治平の跡を継ぎ江田島にある海軍兵学校に入り大正15年卒業、海軍航空隊に入り、父と同様に中佐となりましたが、外地で終戦になり2年後に帰還。(奥さんと子供三人は、戦争中は加茂町に疎開していた)その後、奥さんの実家の逗子に移った。
息子さんの石城さんの著書の中に、ご両親と自分との関りなどで興味のあるところがありましたのでお送りします。
次郎氏は「男は負け戦のことなぞ、他人に語るものではない。」という態度の方でした。例えば、奥様が夫の自殺を心配された時に「そんなことするものか、我々が日本を再興するのだ。」と。また、娘さんの千里さんには「収容所に居る時、米軍を通して天皇陛下より、負けたからと自殺しないように、必ず日本に帰ってくるようにとのお言葉があった。と父から聞いている。」
また、本当は飛行機を製作することの方に夢があった息子の石城さんが、防衛大を止めて三菱重工業に就職するつもりでいた時「飛行機に乗れない奴が飛行機など造れるわけがない。」と次郎に言われ、それなら飛行機に乗ろうじゃないかとなって今の道に進むようになったとのこと。
寡黙な人が本当に言うべき時に言う言葉は万金の重みがある。これが、大正、昭和の親父の姿だったと、懐かしく思いました。
私のように百姓生れの女性には、もののふ、軍人には縁がなく育ってきましたが、いざというときに、自分の思いでなくて大義のために行動する男の心情のようなものに久しぶりに触れたように思いました。
結局、田中次郎家では、海軍軍人になるため兵学校に入学した次郎氏が、その当時の日本の戦況の状況で一番必要な飛行機の操縦士となり、その息子も戦後の日本空軍に入り次郎氏の後を継ぎました。また、石城さんの姉千里さんは、内田耕太郎氏(防衛大学校卒・海上自衛隊幹部)と結婚、治平の敬愛する上官東郷元帥ゆかりの海上自衛隊舞鶴地方総監を歴任。治平と同じ海軍の道を全うされたと聞いています。(原田兼子さん談)
田中孝夫氏は、大正10年3月津山中学を卒業後、東京美術学校(現東京藝術大学)の西洋画科を卒業後、昭和3年4月兵庫県立丹波篠山高等女学校勤務、その後、岡山県立津山峰南高等学校(現津山工業高校)の第6代校長になり、昭和25年3月5日退職。しばらくして昭和31年作陽短大、昭和32年から美作短大の教授になった田中孝夫氏ですが、ここでは一部ですが氏が残した作品たちをご紹介してみます。
上記の絵は、丹波篠山高等女学校時代に制作したバレーボールをする少女達の絵「さわやかな丘」が文展に初入選。迫力のある絵で最優秀作品候補になった絵です。
2021年7月17日の土曜日、津山市小田中にある白加美神社で夏祭りがありました。
町内会の氏子の皆さんが久しぶりに集まり話をしたり、子どもたちの笑顔もみえ、楽しい雰囲気でした。コロナ禍の中、座るのも家族単位です。町内会でも滅多に会うこともなくなっている昨今ですが、みんなと話が出来る事っていいなぁ~とつくづく思いました。早く新型コロナウイルス感染が終息することを祈って。
この度、ポートアート&デザイン津山では、津山市在住の小枝正和氏が収集した蝶や昆虫の標本展を開催いたします。青く輝く「モルフォ蝶」や宝石のように光る「プラチナコガネ」など世界の珍しい希少な昆虫標本が一堂に会します。
小枝氏は2017年、交通事故により生死の境をさまよい、瀕死の重傷を負いながらも緊急手術で一命を取り留められました。絶望を味わう痛みと不安に襲われる、3ヶ月もの苦しい入院生活の中、偶然見つけた「モルフォ蝶」の美しさに心奪われます。
その後、標本集めに没頭し、厳しい自然界を必死で生きる昆虫たちの力強い生命力や前向きに生きる姿に勇気をもらったといいます。
本展では、小枝氏が集めた世界でも貴重な標本の数々を展示いたします。
蝶や昆虫が好きな方々はもちろん、今まさに不安や苦しみの中にいて、生きづらさやつらい思いを抱えながら生きている方々にも、蝶の生命力や昆虫の躍動感、前を向いて生きるたくましさを感じていただければ幸いです。 ポート アート&デザイン津山
2021年6月20日小雨が降っている中でしたが、作楽神社へ行ってきました。
久し振りの訪問となりましたが、お参りした後ふと見ると、なんとなんと可愛いお花がひっそりと咲いていたので思わず撮ってきました。ただし、お花の名前がよくわからないのが残念です。次回は花アプリを入れて訪問してみたいと思います。
田中孝夫氏 画家(1902~1967)(田中孝夫の残した作品の一部)
明治35年1月30日西苫田郡小田中270で生れ。その後上京し、東京市芝区神谷町へ転居。大正2年4月29日父治平死亡後はそのまま東京に居住していたが、孝夫が小学校5年終了後、津山へ帰郷し津山市田町に居住。
大正10年3月津山中学を卒業後、東京美術学校(現東京藝術大学)の西洋画科を卒業。美術教員の資格を得て、昭和3年4月兵庫県立丹波篠山高等女学校勤務、その後、岡山県立津山峰南高等学校(現津山工業高校)の第6代校長になる。昭和25年3月5日退職。しばらくして昭和31年作陽短大、昭和32年から美作短大の教授になる。人柄がソフトで穏やかでいつもにこにこしていたそうです。日本人離れした風貌なので女学生のあこがれだったとか。
丹波篠山高等女学校時代に制作したバレーボールをする少女達の絵「さわやかな丘」が文展に初入選。その作品は迫力のある絵で最優秀作品候補になった。また、津山工業高校の校章をデザインしたのも孝夫だった。(文:埀井悦子さん、原田兼子さん添削)
田中治平 明治3年12月15日~大正2年4月29日(1871~1913)
岡山県英田郡粟井村大字鷺巣(現美作市鷺巣)生まれ。軍人をこころざして明治26年(1893)に海軍少尉候補生となり。日清・日露戦争に従軍。東郷平八郎で有名な日露戦争・日本海海戦では、第2艦隊司令部・旗艦出雲の副官だった。大正元年(1912)、日本が外国に発注した最後の大型艦船である巡洋戦艦金剛を英国に引き取りに赴き、その地で病死した。
海軍兵学校出身、第20期、明治26年12月19日卒
2021年6月20日の津山市にある長法寺までアジサイの花を求めて行って参りました。
今年の長法寺のアジサイの花は、雨が続いた後でもあり、とても生き生きとして美しく感じました。
お花も沢山ついていています。本堂の近くのアジサイの花はまだこれからのようです。また、鐘楼近くでは、カメラマン数人が大きな木の茂みを盛んに撮られていたので、境内の木にみみずくを見つけたら幸運があるという名物のみみずくさんでしょうか?